車両の推移【2】(創業〜昭和20年迄)
他のページへジャンプ
 一部推定  推定部分が含まれます

この【2】は、和久田様が調査してくださった鉄道院や鉄道省の鉄道統計と、若干のずれがあります。それは、届出が遅れたり、認可に時間を要したりする関係で、実際の購入年と統計で現れる年にずれが生じる為と考えられます。
統計に基づく推移は【1】でご紹介いたしましたが、ここでは統計以外の年表、記事、写真から、【1】を加工したものをご紹介いたします。

【1】は鉄道統計の見地から調べていただいたもので、正確です。
届出、申請と認可による動きは、正しく捉えていただいております。
しかし函館水電や帝国電力は必ずしも、実際の推移どおりに届出や申請をしておらず、実際の車両の動きが官庁への提出通りに行われたかといえば、そうでは無い部分が見受けられます。
例えば、復元車の「箱館ハイカラ號」は39号になっていますが、1937年4月22日の鉄道省への届出どおりであれば、37号でなければなりません。

また、函館大火の後に東京市電から購入した「新1型ヨヘロ」45両は函館市電では200型となりましたが、200型は このときが始めてではなく、大正末期から既に「元東京市電251型ヨヘシ」の200型が存在していました。しかし、そのことは、届出が無く統計にはあらわれていません。写真や昔の記事が残っていて判明した事です。

【1】と【2】を統合する試みもしたのですが、届出、申請、許可に基づく統計値の事実と、写真、年表、記事からの事実及び推定を混ぜてしまうことは、好ましくないと考えました。そこで、【1】と【2】の両方を公開することにいたしました。この2つは、視点による違いはありますが、どちらが〇、どちらが×ではなくて、どちらも正しいものと考えています。但し【2】は【1】をベースに作成しており、【1】が無ければ作成は不可能であったと思います。貴重な資料をご提供くださった和久田様に、あらためて御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。
                                                                                    
                 
西暦年 和暦年 在籍車両番号 台数 備考
1913 大正2 1〜25(梅鉢製) 25 6月29日の創業時は5両。10月31日の弁天町−海岸町間開業迄に、20両が追加され、25両となった。
1915 大正4 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
30 九州より5両購入。九州水力電気株式会社の博軌電車からの購入という説が有力だが、定かではない。
和久田様の鉄道統計調査では1914年であるが、この表では川上氏の「大正4年に博多から買った」の記述によりこの年へ記載した。
1917 大正6 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
35 8月9日、東京市電より1型(ヨト型)の車両を5両購入。東京時代の番号は246〜250で、東京側の売却日は1917年5月5日。
和久田様の鉄道統計調査では、1918年であるが、この表では川上氏の「大正6年に東京市からヨシを買った」の記述により、この年へ記載した。但し東京市電時代の車番(246〜250)から考えて「ヨシ」ではなく、「ヨト」が正しい。
1918 大正7 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
40 5月4日、成田電気軌道株式会社から中古電車を5両購入。
1919 大正8 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
46 堺市の梅鉢工場より6両の単車を購入。ボギー車も一緒に発注したが、製造に時間を要した為、単車が先に到着したと思われる。
和久田様の鉄道統計調査では、1920年であるが、この表では川上氏の「大正8年梅鉢から単車6」の記述により、この年へ記載した。
1921 大正10 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜48(梅鉢製ボギー)
48 堺市の梅鉢工場へ発注したボギー車6両の内、2両が8月5日に就役。残りの4両の就役時期は定かではない。この年に6両全て揃った可能性もあるが、この表では残り4両を次の大正11年の扱いとした。和久田様の鉄道統計調査では、1922年〜1924年の間に47〜52の6両増加であるが、ここでは「市電50年のあゆみ」の年表の記述により、この年へ記載した。
1922 大正11 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜48(梅鉢製ボギー)
49〜52(梅鉢製ボギー)
52 ボギー車4両の追加。
「市電50年のあゆみ」で「大正12年2月3日新ボギー車両2両の電熱器車内暖房テスト」のところで「同年冬までに全ボギー6両に装置する計画」の旨の記述があり、この大正12年2月の段階で、既に6両は揃っていたように思える。よってここでは概ね大正11年に残り4両が到着したと推定した。推定なので、大正10年〜13年程度の誤差を含んでいる。
1925 大正14 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜52(梅鉢製ボギー)
53〜59(東京ヨヘシ車)
59 東京市電より、単車7両を購入。東京251型(ヨヘシ型)の
東京時代の番号は429,432,437,458,556,584,624
東京側の売却日は1924年3月11日。
1926 大正15 1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜52(梅鉢製ボギー)
53〜59(東京ヨヘシ車)
59 新川橋車庫火災前は、このような59両の状態であったと考えられる。
1926 大正15 1月20日
新川橋車庫の火災直後


3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
109〜112(元41〜46)...4両
50〜53(梅鉢製ボギー) ..4両
30 41〜46の内、残った車両4両を109〜112へ改番。
47〜52の内、残った車両4両を50〜53へ改番。
「市電50年のあゆみ」では、30両焼失、和久田康雄様の調査では29両焼失、川上幸義氏の調査では28両焼失とある。4月26日届出の廃車届では22両。半焼、全焼の判定で誤差が出たのだと思う。情報不足で特定できない。ここでは29両(単車27、ボギー2)焼失として計算している。

記念すべき1号車は焼失したと考えられる。前年導入のヨヘシ型も残らなかったらしい。ただし、半焼車や全焼車であっても台車は無事で、後年に車体を再生した可能性は有る。

3〜19号が連番で本当に無事だったのかは、資料が無くわからない。昭和9年6月の廃止届から逆算して、新川橋車庫の火災では生きていただろう号車を推定したのであり、書類上と実際の番号が異なることも有り得る。改番・整理された可能性もある。
また、鉄道統計では、成田車で残ったのは36〜38の3両。この表では、平成5年の復元車「箱館ハイカラ號」の車番39にあわせて、36,38,39の3両としている。
1926 大正15 3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
109〜112(元41〜46)...4両

101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)..1両

201〜220(東京ヨヘシ車)..20両
50〜53(梅鉢製ボギー) ..4両
58 ●東京市電の251型補充
2月3日(7両到着)
2月21日(13両到着)
●堺市の梅鉢工場より補充
5月7日(7両到着)

東京市電からの20両増車の認可は1927年(昭和2年)6月18日付けになっているが、車両は1926年に到着していた。東京市電が1925年6月26日付で廃車した53両の中から9両、10月9日付で廃車した33両の中から11両が選ばれて、計20両が補充された。ただし鉄道省への届出は201〜220ではなく、113〜130、132,133となっている。

梅鉢工場の7両は、昭和3年製という説もあるが、昭和2年に撮影の103号車が「市電50年のあゆみ」に掲載されている。「走りました80年」にも、この年の5月7日に到着と書かれている。認可は昭和3年1月16日付であるが、東京車と同様に、先に到着したと考えられる。
川上氏の鉄道ピクトリアルNo.32の「車両概況」の表でも101,102について製造年は「大15」の記述があり、大正15年と考えて間違いないと思われる。
108号については、昭和7年10月28日に131号と一緒に増加届が出ている。しかし、109〜112が、この年に既に存在していることもあり、届が何らかの事由で遅れたものと考え、108号はこの年に掲載した。
鉄道統計では60両であるが、ここでは、川上氏の「58両となり元へ復した」の記述にあわせている。

1927 昭和2 3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両

101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)..1両
109〜112(元41〜46)...4両
201〜220(東京ヨヘシ車)..20両
50〜53(梅鉢製ボギー)...4両
54〜55(梅鉢&再生ボギー)...2両

60 54と55号の増車について昭和2年8月12日付で申請。昭和4年1月19日付で認可。2両の内1両は、自社工場の技術部工作係車庫で再生、もう1台は梅鉢鉄工所へ発注。昭和2年5月から就役し、元の6両の状態に戻った。
1928 昭和3 3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両

101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
132,133(更新車) 2両
131(再生車)...1両

50〜55(梅鉢&再生ボギー)...6両

61 201〜220号の元東京市電251型(ヨヘシ型)について、順次車体更新が行われ、自社再生車・更新車タイプの100型になったと思われる(113〜130,132,133)。
この年に20両全てではなく、複数年を要したかもしれないが、定かではないので、この表では、この年にまとめて掲載している。
推測であるが、18両の車体更新が113〜130号迄完了した後、10型車からの車体改造車輌が131号となり、東京251型の残りの2両の車体更新が完了して、順次132、133号になったのではないかと思われる。
昭和7年10月28日に増加届の131号は、届出が遅れたものと判断し、この年へ掲載している。
1932 昭和7 3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両

101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
131(再生車)...1両
132,133(更新車) 2両
134〜140(更新車)...7両
50〜55(梅鉢&再生ボギー).6両

68 108と131号が10月28日に増加届。この2両の車番の前後は、既に使われており、昭和7年から就役開始ではなく、何らかの事由で、増車届が遅れてしまったと考えられる。

川上幸義氏の調査では、昭和4年1月に半焼車の再生を行った旨の記載で25号車の記述がある(もはゆに誌No.7)。25号の再生後の車番はわからない。

100型の中には、書類上の番号と実際の番号が異なる車両があったと考えられる。100型の番号から10型の番号体系に戻されたものや書類上は100型でも実際は10型の番号をつけていたりする車両があった模様。詳細はわからない。

1930年度(1929年12月〜1930年11月)に3両、1931年度〜1932年度に4両の計7両が増加。但し鉄道省の認可は1932年4月6日付である。
1933 昭和8 3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
131(再生車)...1両
132,133(更新車) 2両
134〜140(更新車)...7両
501〜506(梅鉢&再生ボギー).6両
50〜55(梅鉢&再生ボギー).6両

68 この他に貨車2両(有蓋1、無蓋1)があったので貨車も含めると70両。函館大火の前は、このような車両が揃っていたと考えられる。

ボギー車の50〜55が
501〜506へ改番された時期がはっきりしない。この表では、昭和8年の改番として扱った。「走りました80年」には「旧500型」と紹介されており、また川上氏の記述でも「ボギー車は501以降になった」とある。しかし鉄道統計でも改番の記録は無い。

その後の調査で、昭和9年4月12日付の「車輌焼失届」が見つかり、50〜55号は、500番代へは改番していない事実がわかった。(2002年5月4日追記)

1934 昭和9 3月21日
函館大火直後


3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

16 単車16両だけが残った。
6月15日付で廃車届が出されている。廃車の車両は次のとおり
4〜6,8,10,11,14,16〜19,
30,36,38,
101〜103,106〜117,
119,121,122,124〜127,
129〜131,133〜139,50〜55
(単車46、ボギー6 計52両)

※無事だった30号について、廃車届が出ている理由
書類上では29号が生き残って、昭和12年に除雪車に改造したことになっている。書類上の番号と実際の車体番号が、ボギー車と同様に改番等の事由で違っていたのかもしれない。
鉄道統計では、30,39ではなく、29,37となっている。
30,40という川上氏、小熊氏の記述もあるが、ここでは、「箱館ハイカラ號」の車番39にあわせて30,39とした。函館水電の昭和9年4月12日付 車輌焼失届より、生き残りは29,39とするのが妥当である。
1934 昭和9
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

201〜225(ヨヘロ車)..25両
236〜245(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両

51 焼失車補充の為、東京市より新1型ヨヘロ車を購入した。但し届出は次のとおり

201〜225..1935年3月7日
236〜240..1935年7月12日
241〜245..1935年8月15日

226〜235..1937年1月7日

鉄道統計上も、1934年に35両、1935年に10両の増加になっている。しかし、何故、226〜235の部分が2年遅れて鉄道省への届出となったのかは不明。これら10両については、整備上の問題等で就役が遅れたのかもしれない。

8月1日より函館水電株式会社を改め、帝国電力株式会社に改称

昭和11年に提出された226〜235の増加届に「昭和9年購入で届出漏れ」の旨の記載有。また、帝國電力作成の「改修一覧表」からも226〜235は昭和9年に既に就役していた事を確認した。(2003.6.25追記及び訂正)
1935 昭和10
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

201〜225(ヨヘロ車)..25両
236〜245(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両
236〜245(ヨヘロ車)..10両

61 10両の内、5両は3月25日に到着。残りの5両の到着日は不明。

236〜240は4月の就役開始、
241〜245は6月の就役開始である。(2003.6.25追記)

1936 昭和11
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

201〜245(ヨヘロ車)..45両
301〜315(函館どっく製)..15両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両

76 九州車と成田車を使って除雪車へ改造。この表では、雪1号は旧30 29号、雪2号は旧39号とした。ただし、帝国電力の1937年4月22日の届出書類上は、それぞれ旧番号について29号と37号となっている。

301〜303が6月7日に就役。304〜315が9月15日に就役。
初の道産車15両で、国産部品を使用。
1937 昭和12
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

201〜243(ヨヘロ車)..43両
301〜315(函館どっく製)..15両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3,4(ヨヘロ車)..2両
76 ヨヘロ車の244、245を使って除雪車へ改造。届出日は1937年4月24日。
1940 昭和15
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両

104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両

201〜241(ヨヘロ車)..41両
301〜315(函館どっく製)..15両
401〜406(京王車)..6両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3,4(ヨヘロ車)..2両
雪5,6(ヨヘロ車)..2両
82 ヨヘロ車の242、243を使って除雪車へ改造。届出日は1940年1月19日。

京王電気軌道(京王電鉄)の23型を6両購入。但し401〜403に関する申請は1940年8月26日、6両の認可は1942年10月28日付。

7月15日、帝国電力株式会社は合併により、大日本電力株式会社函館事務所となる。
1941 昭和16 11〜16(梅鉢製)...6両

101,102(梅鉢製)...2両
103〜107(更新車) 5両
108(更新車)...1両

201〜241(ヨヘロ車)..41両
301〜315(函館どっく製)..15両
401〜406(京王車)..6両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3〜6(ヨヘロ車)..4両

82 10型車、100型車の改番。
改番前後の車両番号は次のとおり
3→11,7→14,9→16
12,13,15は変わらず。
104→101,105→102
118→103,120→104
123→105,128→106
132→107,140→108


改番後、100型は101〜108になったが、ルーツと辿れば次のとおり

101,102
大正15年梅鉢製

103〜107
東京ヨヘシ車を自社工場で昭和3年頃に車体更新し、梅鉢タイプにしたもの

108
自社工場で10型車の台車を流用して、昭和7年頃に車体更新し、梅鉢タイプにしたもの


■参考文献
  ●『日本の路面電車−震災から戦災まで−』(和久田康雄様)
    −「鉄道ピクトリアル」誌No.329〜336(1977年1月〜7月)
      の連載記事」
  ●和久田様より別途ご提供いただいた資料
  ●『函館市電』(川上幸義氏)
    −「もはゆに」誌No.7( 1948年12月)...東京鉄道同好会の会報
  ●『函館市電 その后』(川上幸義氏)
    −「Romance Car」誌No.8(1949年12月)..東京鉄道同好会の会報
  ●『凾館市電』(川上幸義氏)
   −「鉄道ピクトリアル」誌1954年(昭和29年)3月号(通巻No.32)
  ●『都電車両50年のあゆみ』(高松吉太郎氏)
    −「鉄道ピクトリアル」誌No.121〜131(1961年8月〜1962年5月)
      の連載記事
  ●『木製車 花やかなりし頃−大正時代の東京市電−』(高松吉太郎氏)
    −「鉄道ピクトリアル」誌No.59(1956年6月)
  ●『凾館市電の除雪電車 その雪1,2号の来歴について』(小熊米雄氏)
   −「鉄道ファン」誌1963年(昭和38年)1月号(通巻No.19)
  ●『市電50年のあゆみ』−函館市交通局
  ●『走りました80年』−函館市交通局

■修正履歴
  ・2003年6月25日
   226〜235及び236〜245号の就役開始日が判明した為、修正。
   226〜235の届出が昭和11年であったのは、昭和9年当時の届出
   漏れである旨を増加届の中の記事で確認

   尚本車輌ハ昭和九年末購入セシモノニシテ届出漏レナル事判明仕候ニ付
   今般改メテ提出スル次第ニ有之候


  ●『車輌増加届』(昭和11年12月15日 帝国電力株式會社)
  ●「購入東京車主要改修一覧表」(昭和10年 帝国電力株式會社)

前のページへ戻る【1】へ  次ページへ進む【3】へ

(2001年11月11日/2002年1月6日一部修正/1月21日改定)
(2003年6月25日一部修正)


 

トップページ
乗車料金と所要時間
函館市電の歴史
昔の車両のご紹介
車両のご紹介
営業路線のご案内
資料・情報館
写真館
リンクのコーナー
写真の著作権
コンテンツ一覧