西暦年 |
和暦年 |
在籍車両番号 |
台数 |
備考 |
1913 |
大正2 |
1〜25(梅鉢製) |
25 |
6月29日の創業時は5両。10月31日の弁天町−海岸町間開業迄に、20両が追加され、25両となった。 |
1915 |
大正4 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車) |
30 |
九州より5両購入。九州水力電気株式会社の博軌電車からの購入という説が有力だが、定かではない。
和久田様の鉄道統計調査では1914年であるが、この表では川上氏の「大正4年に博多から買った」の記述によりこの年へ記載した。 |
1917 |
大正6 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車) |
35 |
8月9日、東京市電より1型(ヨト型)の車両を5両購入。東京時代の番号は246〜250で、東京側の売却日は1917年5月5日。
和久田様の鉄道統計調査では、1918年であるが、この表では川上氏の「大正6年に東京市からヨシを買った」の記述により、この年へ記載した。但し東京市電時代の車番(246〜250)から考えて「ヨシ」ではなく、「ヨト」が正しい。
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1918 |
大正7 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車) |
40 |
5月4日、成田電気軌道株式会社から中古電車を5両購入。 |
1919 |
大正8 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製) |
46 |
堺市の梅鉢工場より6両の単車を購入。ボギー車も一緒に発注したが、製造に時間を要した為、単車が先に到着したと思われる。
和久田様の鉄道統計調査では、1920年であるが、この表では川上氏の「大正8年梅鉢から単車6」の記述により、この年へ記載した。 |
1921 |
大正10 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜48(梅鉢製ボギー) |
48 |
堺市の梅鉢工場へ発注したボギー車6両の内、2両が8月5日に就役。残りの4両の就役時期は定かではない。この年に6両全て揃った可能性もあるが、この表では残り4両を次の大正11年の扱いとした。和久田様の鉄道統計調査では、1922年〜1924年の間に47〜52の6両増加であるが、ここでは「市電50年のあゆみ」の年表の記述により、この年へ記載した。 |
1922 |
大正11 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜48(梅鉢製ボギー)
49〜52(梅鉢製ボギー) |
52 |
ボギー車4両の追加。
「市電50年のあゆみ」で「大正12年2月3日新ボギー車両2両の電熱器車内暖房テスト」のところで「同年冬までに全ボギー6両に装置する計画」の旨の記述があり、この大正12年2月の段階で、既に6両は揃っていたように思える。よってここでは概ね大正11年に残り4両が到着したと推定した。推定なので、大正10年〜13年程度の誤差を含んでいる。 |
1925 |
大正14 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜52(梅鉢製ボギー)
53〜59(東京ヨヘシ車) |
59 |
東京市電より、単車7両を購入。東京251型(ヨヘシ型)の
東京時代の番号は429,432,437,458,556,584,624
東京側の売却日は1924年3月11日。
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1926 |
大正15 |
1〜25(梅鉢製)
26〜30(九州車)
31〜35(東京ヨト車)
36〜40(成田車)
41〜46(梅鉢製)
47〜52(梅鉢製ボギー)
53〜59(東京ヨヘシ車) |
59 |
新川橋車庫火災前は、このような59両の状態であったと考えられる。 |
1926 |
大正15 |
1月20日
新川橋車庫の火災直後
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
109〜112(元41〜46)...4両
50〜53(梅鉢製ボギー) ..4両 |
30 |
41〜46の内、残った車両4両を109〜112へ改番。
47〜52の内、残った車両4両を50〜53へ改番。
「市電50年のあゆみ」では、30両焼失、和久田康雄様の調査では29両焼失、川上幸義氏の調査では28両焼失とある。4月26日届出の廃車届では22両。半焼、全焼の判定で誤差が出たのだと思う。情報不足で特定できない。ここでは29両(単車27、ボギー2)焼失として計算している。
記念すべき1号車は焼失したと考えられる。前年導入のヨヘシ型も残らなかったらしい。ただし、半焼車や全焼車であっても台車は無事で、後年に車体を再生した可能性は有る。
3〜19号が連番で本当に無事だったのかは、資料が無くわからない。昭和9年6月の廃止届から逆算して、新川橋車庫の火災では生きていただろう号車を推定したのであり、書類上と実際の番号が異なることも有り得る。改番・整理された可能性もある。
また、鉄道統計では、成田車で残ったのは36〜38の3両。この表では、平成5年の復元車「箱館ハイカラ號」の車番39にあわせて、36,38,39の3両としている。 |
1926 |
大正15 |
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
109〜112(元41〜46)...4両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)..1両
201〜220(東京ヨヘシ車)..20両
50〜53(梅鉢製ボギー) ..4両 |
58 |
●東京市電の251型補充
2月3日(7両到着)
2月21日(13両到着)
●堺市の梅鉢工場より補充
5月7日(7両到着)
東京市電からの20両増車の認可は1927年(昭和2年)6月18日付けになっているが、車両は1926年に到着していた。東京市電が1925年6月26日付で廃車した53両の中から9両、10月9日付で廃車した33両の中から11両が選ばれて、計20両が補充された。ただし鉄道省への届出は201〜220ではなく、113〜130、132,133となっている。
梅鉢工場の7両は、昭和3年製という説もあるが、昭和2年に撮影の103号車が「市電50年のあゆみ」に掲載されている。「走りました80年」にも、この年の5月7日に到着と書かれている。認可は昭和3年1月16日付であるが、東京車と同様に、先に到着したと考えられる。
川上氏の鉄道ピクトリアルNo.32の「車両概況」の表でも101,102について製造年は「大15」の記述があり、大正15年と考えて間違いないと思われる。
108号については、昭和7年10月28日に131号と一緒に増加届が出ている。しかし、109〜112が、この年に既に存在していることもあり、届が何らかの事由で遅れたものと考え、108号はこの年に掲載した。
鉄道統計では60両であるが、ここでは、川上氏の「58両となり元へ復した」の記述にあわせている。
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1927 |
昭和2 |
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)..1両
109〜112(元41〜46)...4両
201〜220(東京ヨヘシ車)..20両
50〜53(梅鉢製ボギー)...4両
54〜55(梅鉢&再生ボギー)...2両
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60 |
54と55号の増車について昭和2年8月12日付で申請。昭和4年1月19日付で認可。2両の内1両は、自社工場の技術部工作係車庫で再生、もう1台は梅鉢鉄工所へ発注。昭和2年5月から就役し、元の6両の状態に戻った。 |
1928 |
昭和3 |
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
132,133(更新車) 2両
131(再生車)...1両
50〜55(梅鉢&再生ボギー)...6両
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61 |
201〜220号の元東京市電251型(ヨヘシ型)について、順次車体更新が行われ、自社再生車・更新車タイプの100型になったと思われる(113〜130,132,133)。
この年に20両全てではなく、複数年を要したかもしれないが、定かではないので、この表では、この年にまとめて掲載している。
推測であるが、18両の車体更新が113〜130号迄完了した後、10型車からの車体改造車輌が131号となり、東京251型の残りの2両の車体更新が完了して、順次132、133号になったのではないかと思われる。
昭和7年10月28日に増加届の131号は、届出が遅れたものと判断し、この年へ掲載している。 |
1932 |
昭和7 |
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
131(再生車)...1両
132,133(更新車) 2両
134〜140(更新車)...7両
50〜55(梅鉢&再生ボギー).6両
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68 |
108と131号が10月28日に増加届。この2両の車番の前後は、既に使われており、昭和7年から就役開始ではなく、何らかの事由で、増車届が遅れてしまったと考えられる。
川上幸義氏の調査では、昭和4年1月に半焼車の再生を行った旨の記載で25号車の記述がある(もはゆに誌No.7)。25号の再生後の車番はわからない。
100型の中には、書類上の番号と実際の番号が異なる車両があったと考えられる。100型の番号から10型の番号体系に戻されたものや書類上は100型でも実際は10型の番号をつけていたりする車両があった模様。詳細はわからない。
1930年度(1929年12月〜1930年11月)に3両、1931年度〜1932年度に4両の計7両が増加。但し鉄道省の認可は1932年4月6日付である。
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1933 |
昭和8 |
3〜19(梅鉢製)...17両
29,30(九州車)...2両
36,38,39(成田車)...3両
101〜107(梅鉢製)...7両
108(再生車)...1両
109〜112(元41〜46)...4両
113〜130(更新車) 18両
131(再生車)...1両
132,133(更新車) 2両
134〜140(更新車)...7両
501〜506(梅鉢&再生ボギー).6両
50〜55(梅鉢&再生ボギー).6両
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68 |
この他に貨車2両(有蓋1、無蓋1)があったので貨車も含めると70両。函館大火の前は、このような車両が揃っていたと考えられる。
ボギー車の50〜55が
501〜506へ改番された時期がはっきりしない。この表では、昭和8年の改番として扱った。「走りました80年」には「旧500型」と紹介されており、また川上氏の記述でも「ボギー車は501以降になった」とある。しかし鉄道統計でも改番の記録は無い。
その後の調査で、昭和9年4月12日付の「車輌焼失届」が見つかり、50〜55号は、500番代へは改番していない事実がわかった。(2002年5月4日追記)
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1934 |
昭和9 |
3月21日
函館大火直後
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
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16 |
単車16両だけが残った。
6月15日付で廃車届が出されている。廃車の車両は次のとおり
4〜6,8,10,11,14,16〜19,
30,36,38,
101〜103,106〜117,
119,121,122,124〜127,
129〜131,133〜139,50〜55
(単車46、ボギー6 計52両)
※無事だった30号について、廃車届が出ている理由
書類上では29号が生き残って、昭和12年に除雪車に改造したことになっている。書類上の番号と実際の車体番号が、ボギー車と同様に改番等の事由で違っていたのかもしれない。
鉄道統計では、30,39ではなく、29,37となっている。
30,40という川上氏、小熊氏の記述もあるが、ここでは、「箱館ハイカラ號」の車番39にあわせて30,39とした。函館水電の昭和9年4月12日付 車輌焼失届より、生き残りは29,39とするのが妥当である。 |
1934 |
昭和9 |
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
201〜225(ヨヘロ車)..25両
236〜245(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両
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51 |
焼失車補充の為、東京市より新1型ヨヘロ車を購入した。但し届出は次のとおり
201〜225..1935年3月7日
236〜240..1935年7月12日
241〜245..1935年8月15日
226〜235..1937年1月7日
鉄道統計上も、1934年に35両、1935年に10両の増加になっている。しかし、何故、226〜235の部分が2年遅れて鉄道省への届出となったのかは不明。これら10両については、整備上の問題等で就役が遅れたのかもしれない。
8月1日より函館水電株式会社を改め、帝国電力株式会社に改称
昭和11年に提出された226〜235の増加届に「昭和9年購入で届出漏れ」の旨の記載有。また、帝國電力作成の「改修一覧表」からも226〜235は昭和9年に既に就役していた事を確認した。(2003.6.25追記及び訂正)
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1935 |
昭和10 |
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
30 29(九州車)...1両
39(成田車)...1両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
201〜225(ヨヘロ車)..25両
236〜245(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両
226〜235(ヨヘロ車)..10両
236〜245(ヨヘロ車)..10両
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61 |
10両の内、5両は3月25日に到着。残りの5両の到着日は不明。
236〜240は4月の就役開始、
241〜245は6月の就役開始である。(2003.6.25追記)
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1936 |
昭和11 |
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
201〜245(ヨヘロ車)..45両
301〜315(函館どっく製)..15両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
|
76 |
九州車と成田車を使って除雪車へ改造。この表では、雪1号は旧30 29号、雪2号は旧39号とした。ただし、帝国電力の1937年4月22日の届出書類上は、それぞれ旧番号について29号と37号となっている。
301〜303が6月7日に就役。304〜315が9月15日に就役。
初の道産車15両で、国産部品を使用。
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1937 |
昭和12 |
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
201〜243(ヨヘロ車)..43両
301〜315(函館どっく製)..15両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3,4(ヨヘロ車)..2両
|
76 |
ヨヘロ車の244、245を使って除雪車へ改造。届出日は1937年4月24日。 |
1940 |
昭和15 |
3,7,9,
12,13,15(梅鉢製)...6両
104,105(梅鉢製)...2両
118,120,123,
128,132(更新車) 5両
140(更新車)..1両
201〜241(ヨヘロ車)..41両
301〜315(函館どっく製)..15両
401〜406(京王車)..6両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3,4(ヨヘロ車)..2両
雪5,6(ヨヘロ車)..2両
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82 |
ヨヘロ車の242、243を使って除雪車へ改造。届出日は1940年1月19日。
京王電気軌道(京王電鉄)の23型を6両購入。但し401〜403に関する申請は1940年8月26日、6両の認可は1942年10月28日付。
7月15日、帝国電力株式会社は合併により、大日本電力株式会社函館事務所となる。 |
1941 |
昭和16 |
11〜16(梅鉢製)...6両
101,102(梅鉢製)...2両
103〜107(更新車) 5両
108(更新車)...1両
201〜241(ヨヘロ車)..41両
301〜315(函館どっく製)..15両
401〜406(京王車)..6両
雪1(九州車)..1両
雪2(成田車)..1両
雪3〜6(ヨヘロ車)..4両
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82 |
10型車、100型車の改番。
改番前後の車両番号は次のとおり
3→11,7→14,9→16
12,13,15は変わらず。
104→101,105→102
118→103,120→104
123→105,128→106
132→107,140→108
改番後、100型は101〜108になったが、ルーツと辿れば次のとおり
101,102
大正15年梅鉢製
103〜107
東京ヨヘシ車を自社工場で昭和3年頃に車体更新し、梅鉢タイプにしたもの
108
自社工場で10型車の台車を流用して、昭和7年頃に車体更新し、梅鉢タイプにしたもの
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