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江戸っ子 |
東京市電 新1型(ヨへロ型)→函館市電200型 |
金杉橋付近の1型115号(後に函館市電241号)−高松吉太郎氏撮影
『鉄道ピクトリアルNo.443』より
ヨヘロに改造された821型888号(後に新1型77号)−高松吉太郎氏撮影
『鉄道ピクトリアルNo.443』より
ヨヘロ型の特徴ですが、ヨヘシ型の2段屋根とは異なりシングル屋根です。ですがよく見ると、数十センチ程度の段差が見られます。上の写真でもご覧いただけるように、運転席の上の屋根から、反対側の運転席(反対側には車掌が乗りました)の屋根上迄、中央部分だけが高くなって少しだけ段差があるのがご覧いただけると思います。
同じシングル屋根でも、函館で大正2年に導入した1〜25号や、大正末から昭和初期にかけて製作された100型(101〜140号)の場合は、このような中央部分が少し高くなったような段差はありませんでした。
同じヨヘロ車でも、上記の写真を撮影した時点では、115号はペックハム8B型の台車であり、888号はブリル21E型の台車です。東京市電時代より昔へ遡ると、115号は「東京電車鉄道」の出身、888号は「東京電気鉄道」の出身であり、製造時に使用された台車が異なる為、車体更新で同じ車体になっても台車が異なったわけです。
1934年(昭和9年)3月の函館大火の後、東京市電より購入した45両のヨヘロは、東京市電の115号や888号のような姿であったと思われます。函館市電では201〜245号の番号が付けられました。
115号は、大正14年に東京市電で4号に改番されています。4号は購入した45両に含まれており、函館市電では241号として活躍しました。
東京市電の115号は、1903年(明治36年)若しくは翌年に、製造されました。製造工場は、日本車輌、天野工場、東京電車鉄道の自社工場の何れかであったと考えられます。
1906年(明治39年)に「東京電車鉄道」が「東京鉄道株式会社」に合併され、1911年(明治44年)8月には、その東京鉄道株式会社も「東京市電気局」に買収されて、東京市電が誕生しましたが、何れの時代でも、この車輌は1型として活躍しました。
東京市電では、1型(ヨト型)115号となって活躍をはじめましたが、1917年(大正6年)に車体更新を受けてヨヘロ型に改造されました。その時に、運転手が雨風を防ぐベスチビュール(風雨よけのガラス窓付き正面羽目板)を取り付けてもらい、丸い屋根の形になり、側面の窓が9個から8個に変更されました(103〜162号が9個、他のヨト型は10個の窓がありました)。上記の写真はヨヘロ改造後の姿です。
同じ、東京電車鉄道出身の仲間で246〜250号が、1917年(大正6年)に函館にやってきて、31〜35号として活躍しましたが、これらの5両はヨヘロ改造前のヨト型の姿でした。
115号は、1923年(大正12年)9月の関東大震災の時も無事でした。
関東大震災により、多くの車輌を失った東京市電でしたが、復興が落ち着きはじめた1925年(大正14年)に車輌の整理・改番が行われ、1型、251型、821型の中に分散して混在していたヨヘロ改造車は新1型に統合されました。115号は新1型の4号になりました。
1934年(昭和9年)若しくは翌年に、函館にやってきて、函館市電では241号として活躍しました。
241号は、残念ながら1948年(昭和23年)9月30日付で廃車になっています。
ヨヘロ型は東京にも残っておらず、唯一、函館市電に除雪車として雪3〜5号の3両が残っているだけです。とても貴重な3両です。
江戸っ子時代の姿[4]
(2001年11月23日/11月29日一部追記/2002年1月8日一部追記) |
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