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江戸っ子 |
東京市電1型(ヨト型)→函館市電10型31〜35号 |
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1906年(明治39年)に
「東京電車鉄道」、「東京市街鉄道」、「東京電気鉄道」の三社が合併して「東京鉄道株式会社」が誕生しました。
それを東京市が買収して明治44年8月1日「東京市電気局」が発足し、東京市電が誕生しました。
東京電車鉄道時代の1型は、東京鉄道や東京市電でも1型としてそのまま引き継がれ、「ヨト型」とも呼ばれました。
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東京電車鉄道時代の1型28号(明治36年)−高松吉太郎氏所蔵
『鉄道ピクトリアルNo.59』より
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ヨト型の特徴は、側面の窓が10個あったことです(一部例外で9個)。
そして、もう一つの特徴は、車内の天井でした。客車の中でも、骨組みが剥き出し状態でした。
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ヨト型の車内の天井−高松吉太郎氏所蔵
『鉄道ピクトリアルNo.59』より
東京市電246〜250号が、1917年(大正6年)に函館にやってきて、
31〜35号として活躍しました。
残念ながら、東京市電の246〜250号も、函館市電の31〜35号も写真がみつかっておりませんが、ここに掲載した車両と同様であったと考えられます。
明治30年頃、東京電車鉄道時代の銀座4丁目交差点−高松吉太郎氏所蔵
東京電車鉄道の188号(背後の建物は服部時計店)−『鉄道ピクトリアルNo.78』より
明治42年頃、東京鉄道株式会社時代の日比谷交差点−高松吉太郎氏所蔵
東京電車鉄道出身201号(ヨト型)と東京市街鉄道出身395号(ヨシ型)
『鉄道ピクトリアルNo.122』より
日比谷の交差点は、当時唯一東京で電車が交差する場所で、
名所であったそうです。
合併前の時代から東京市街鉄道(街鉄)と 東京電気鉄道(外濠線)が
交差していました。3社が合併し東京電気鉄道になった後、元東京電車鉄道
(東電)のヨト型もこの交差点を走るようになりました。
なお、東京電気鉄道に合併後、
東電からのヨト型250両(旧1〜250)は、そのまま1〜250号、
街鉄からのヨシ型463両(旧1〜499一部欠番有)は251〜749号に改番、
外濠線からのヨソ型180両(旧1〜180)は821〜1000号に改番されました。
この車番は、そのまま東京市電へ引き継がれています。
また、写真では小さくしか写っていませんが、ヨシ型の395号は大正11年に
雨宮製作所でヨヘロ型に車体更新されました。1923年(大正12年)9月の
関東大震災の時も無事でした。大正14年の改番により新1型96号になり
ました。
1934年(昭和9年)若しくは翌年に、函館にやってきて函館市電では222号
として活躍しました。
222号は、1950年(昭和25年)6月30日付けで216号に改番され、その後も
しばらく活躍したのですが、残念ながら1950年(昭和25年)12月1日付で
廃車になっています。
395号については、次の「江戸っ子時代の姿(3)」のページでご紹介しようと思いました
が、写りかたが小さいので、ヨト型と一緒にこのページでご紹介いたしました。
江戸っ子時代の姿[2]
(2001年11月23日/12月29日一部追記/2002年1月7日一部訂正) |
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