江戸っ子時代の姿(3)
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 江戸っ子  東京市電251型(ヨへシ型)→函館市電10・100・200型

大正6年頃、ベスチビュール改造前の251型636号−高松吉太郎氏撮影
『鉄道ピクトリアルNo.59』より

ベスチビュール(Vestibule)とは、本来は入口とか玄関という意味のようです。市電の改造では「運転台の改造」の意味に使われていました。明治時代の単車は、運転台には屋根だけで、雨の日は、正面からの風雨で、運転手は大変な思いをしたようです。そこで、運転台の正面にガラス付きの羽目板を取り付けることで、正面からの風雨を防ぐ改造が行われました。「運転台の改造」の意味だけではなく、「ガラス付きの羽目板」そのものの意味にも使われていた言葉のようです。

このときの運転台の改造では、運転席の横に扉は取り付けられませんでした。正面からの風雨は防げるようになりましたが、横からの風雨は運転席に入ってしまう状態です。正面からの風雨に対する対策なのですが、それだけでも運転手にとっては、以前に比べれば大きな改善だったようです。

上記写真の636号は、ベスチビュール改造前のオープンデッキ時代の姿です。ベスチビュール改造がはじまった頃は、「あの電車は、まだベシュビルが付いていない」とか「この電車は、同じオープンデッキでもベシュビル付きだ」とか、そんなふうに言っていたらしいです。「ベスチビュール」という言葉は言い難いので、「ベシュビル」のように言葉を短縮したわけですね。

251型のベスチビュール改造は、1920年(大正9年)3月より、翌年春頃にかけて実施されました。
ベスチビュール改造前は「ヨシ型」、改造後は「ヨヘシ型」と呼ばれました。

ヨシ型やヨヘシ型の特徴ですが、ヨヘロ型とは異なり、2段屋根になっています。
まるで、現代の電車の冷房装置を思わせる風貌
ですね。この2段屋根をはじめに考えた人は、未来の路面電車の姿を予知能力で見て、こんな屋根の形にしたのかもしれませんね....(汗。

そして、これはヨシ型やヨヘシ型だけの固有の特徴なのですが、車体整備の便宜をはかり、屋根に登るための「まな板」のようなステップが、屋根部分に取り付けられています。上の636号の写真では、向って一番右の窓の上の部分の所です。窓1個分位の横幅サイズの板が、何本かの支柱にささえられて地面と水平に取り付けられているのが、ご覧いただけるでしょうか?

函館には来ませんでしたが、東京市電には750型(ヨテ型・ヨヘテ型:750〜799)というタイプの車輌もありました。ヨテ型・ヨヘテ型にも「まな板」のようなステップがありましたが、ヨシ型・ヨヘシ型とは反対側に取り付けられていました。
運転手が運転するとき、右手側の屋根上に板があったのがヨシ型・ヨヘシ型、車掌が乗務したとき、車掌の左手側の屋根上に板があったのがヨシ型・ヨヘシ型です。
それとは逆に、運転手が運転するとき、左手側の屋根上に板があったのがヨテ型・ヨヘテ型、車掌が乗務したとき、車掌の右手側の屋根上に板があったのがヨテ型・ヨヘテ型です。ちょっと説明がくどかったでしょうか....(汗。

      
桜田門付近の251型458号と433号−撮影者不詳
『鉄道ピクトリアルNo.59』より

458号は、1925年(大正14年)に函館にやってきました。函館市電では、53〜59号の何れかになったようです。
また、1926年(大正15年)1月の新川橋車庫(新川車庫)火災後、20両の251型を東京市電から購入していますが、そのときは113〜130、132、133号の番号が付けられています。ただし、これら20両の導入当初の実車番号は201〜220号であったと考えられます。昭和3年以降、自社工場で順次車体更新が行われ、ヨヘシ型の車体から梅鉢車タイプの車体に改められ、そのときに100型の車番になった模様です。

200型は、次にご紹介する、昭和9年以降に購入したヨヘロ型だけだと思ったのですが、函館大火の前に、既にヨヘシ型の200型が一時期活躍していた模様です。訂正しお詫び申し上げます(2001年12月4日追記)。

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(2001年11月23日/12月4日一部追記/2002年1月8日一部追記)



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