保存車両[21]
写真集 旭川市電  大切な文化財


 「旭川兵村記念館」において旭川電気軌道に関する特別展が行われていました。
そこで、モハ1001号へ会いに行く前に立ち寄ることにしました。


日本最北の電車が走った町
−旭川四条〜東川町・旭山公園へ(旭川電気軌道)−
昭和2年から昭和47年

往時の暮らしを支え足として活躍した懐かしき原風景、路面電車

旭川兵村記念館 特別展    後援 旭川電気軌道(株)
平成20年4月29日〜10月26日


以下は、「旭川兵村記念館」の館内にあった掲示文書より引用
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「日本最北の電車が走った町」の開催にあたって

 今年の特別展は、旭川電気軌道(株)が開業した「郊外電車」です。それら
は、まず昭和2年に旭川の四条二十丁目(10月に4条18丁目を経て国鉄旭
川駅まで)から四条通りを東方へ、豊岡の旭川追分、千代田、旭正を経て東川
市街に向かう東川線、ついで昭和5年に旭川追分から竜谷学園、愛宕、役場前
などを経て旭山公園に向かう東旭川線の2路線。特に東川線は、村民の足とし
てだけでなく米など農産物の輸送機関として大きな役割を果たし、また東旭川
線は、当時の市民の憩いの場として人気があった旭山公園に対しての利用客を
当て込んだものといわれています。
 展示内容は、東川、東旭川を走った郊外電車の写真、レバーやゲージなどの
運転部品、運転手の制服や制帽、旭川新聞や北海道新聞などの関連記事、沿線
を走る電車の映像(佐藤彰氏撮影)などで往時をたどります。
 なお開催にあたっては、旭川電気軌道(株)の後援を始め、東川郷土館、神
楽公民館、さらには飛騨野数右衛門氏、今村一氏、高井和義氏、武田侑子氏、
百井昌男氏など地域の人々からも多大な強力を頂きました。記して厚くお礼申
し上げます。

 平成20年4月
                                 財団法人 旭川兵村記念館
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 ですが、実際の展示では「郊外電車(旭川電気軌道)」だけでなく、「市内電車(旭川市街軌道)」の写真なども展示されていました。


 東旭川農村環境改善センター・東旭川公民館に掲示されている「旭川電軌区間略図」より

上の図は、一部違っているようです。右側の「東川四号」は旧名でしょうか?廃止になる直前は、「東川学校前」であったようです。また、東川線と東旭川線の分岐は「旭川追分」でした。「旭川追分」は、東川線と東旭川線に共通の駅でした。上記の図では、「旭川追分」は東旭川線に接していないように書かれていますが、これは違います。

それから、下の部分は何かはがされたような跡があります.....。他のサイトの情報によると、ここには「この電車は昭和48年3月に旭川電気軌道より寄贈されました」と書かれていたようです。何故、はがしてしまったのでしょうか。とても残念です....。

●東旭川線
旭川追分 - 龍谷学園前 - 墓地前 - 愛宕 - 一丁目 - 二丁目 - 役場前 - 四丁目 - 五丁目 - 旭山公園

●東川線
旭川四条 - 旭川追分 - 二号線 - 千代田 - 下四号線 - 観音 - 坂ノ上 - 旭正 - 上旭正
- 上七号線 - 十号 - 西九号 - 西川 - 西六号 - 東川学校前 - 東川

(貨物線)旭川 - 旭川一条 - 旭川四条
























旭川市電 モハ1001号−北海道旭川市東旭川町:東旭川農村環境改善センター
   北海道旭川市東旭川町上兵村
   交 通:旭川電気軌道 バス41系統「旭山動物園」行 「東旭川1条6丁目」バス停下車
       徒歩15分

掲示文書より引用
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ここに展示されている電車は、昭和48年3月に旭川市へ寄贈されました。形式は、モハ1000形と呼ばれ長さは18Mあります。昭和30年7月に、日本車輌東京支店から旭川電気軌道株式会社が購入したものです。それまでの電車は、出入口の扉は手動で、運転台と客室はHポールで仕切られていただけであったのが、自動扉を持ち、独立した運転室を持つなど、当時最新の装備で颯爽と旭川と東旭川の間をはしっていました。

電車が、旭川市内と東旭川(旭山公園)を走ったのは、昭和5年のことでした。この電車が、東旭川 東川間を走るようになったのは、大正14年3月10日に岩崎清一を発起人代表として、東川村有志15名が連名し4条21丁目を起点に、東川村西3号北1番地を終点とする13.75Kmの電車敷設特許の出願を行い、同年11月30日に鉄道、内務大臣より特許があり翌15年1月28日札幌市に於いて旭川電気軌道株式会社(仮称)の設立総会を開き、資本金30万として同年2月4日に設立登記を完了し、本社を札幌から旭川に移転  同年10月 2月10月(?)旭川市4条21丁目において起工式を行い直ちに電気軌道敷設工事に着手、昭和2年1月15日東川までの軌道を完成し、営業を始めたのが初めとされています。

こうして始まった郊外電車は、日本最北の電車として多くの人に利用され親しまれましたが、昭和47年12月31日にその役割を終えました。
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【颯爽と旭川と東旭川の間をはしっていました。】は
【颯爽(さっそう)と『旭川〜東旭川』間を走っていました。】と
書いたほうがわかりやすいと思いました。
何故なら、「颯爽駅」と「旭川駅」と「東旭川駅」の間をはしっていた...と誤って解釈される可能性が無きにしも非ずだからです....(汗。


【同年10月 2月10月旭川市4条21丁目において起工式を行い】は、
【同年(大正15年)10月には工事が認可され、10月21日に、旭川市4条21丁目において起工式を行い】が正しいのではないかと思います。

大人だけでなく、小学生の子供達も読むであろうこと考えると、全体的に文書が長すぎるので、もう少し句読点を使って区切って書いたほうがわかりやすくなると思いました。

 モハ101〜103号は、2種類の集電装置(パンタグラフ、トロリーポール)を持っていました。運転時は、パンタグラフを使用し、入庫時はトロリーポールを使っていました。これは、車庫内にオーバーヘッドクレーンがある関係で、架線が非常に高い位置にあったためです。架線の位置が高く、パンタグラフでは届きませんでした。その為、集電装置を使い分けていたのです。
モハ501やモハ1001の場合、普段はトロリーポールをつけていませんでしたが、検査で入庫しなければならない場合はトロリーポールを装着していました。この2両は、トロリーポールを着脱できるポール台を備えていたのです。



■1961年(昭和36年)当時の貴重な写真

斎藤様のご好意で、1961年(昭和36年)当時の、大変貴重な写真を掲載させていただくことができました。 旭川市街軌道(市内電車)・204号の写真です。

昭和31年(1956)6月8日付で軌道事業が廃止になった後も、204号は、しばらくの間、 「北海道護国神社平成館(旧北鎮兵事記念館)」に保存されていたことが判明いたしました。

大変貴重な写真をご提供くださり、ありがとうございます。

ぽると出版のホームページ

ぽると出版編集部ブログ

旭川市街軌道・204号
  1961年(昭和36年)6月、旭川市・北海道護国神社平成館(旧北鎮兵事記念館)に保存の204号


旭川市街軌道・204号
  1961年(昭和36年)6月、旭川市・北海道護国神社平成館(旧北鎮兵事記念館)に保存の204号

(2014年11月16日追加掲載)

 以下は、「旭川市街軌道(市内電車)」と「旭川電気軌道(郊外電車)」の車両について、知りえた範囲で記載したものです。「旭川市街軌道(市内電車)」の車両が1両も残されていないのはとても残念なことですが、モハ101、モハ1001、セキ1、セキ1001(セキ2)が残っているのは嬉しい限りです。電車2両、貨車2両の計4両が保存されています。

 旭川市街軌道にも旭川電気軌道にも車番に空番があるのですが、空番が設けられた理由は定かではありません。


■旭川市街軌道の車両(市内電車) 昭和31年(1956)6月8日軌道事業廃止
車番 製造・仕様等
1〜20 川崎車輌 昭和4年(1929)製 半鋼製四輪電動客車(単車)
定員44名(座席20、立席22)
寸法(横・幅・高) 8200 × 2438 × 3340 自重9.14t
電動機 22.4馬力 × 2   戦後 50馬力 × 2へ増強
22〜27 汽車会社東京支社 昭和5年(1930)製 半鋼製四輪電動客車(単車)
定員44名(座席20、立席22)
寸法(横・幅・高)8200 × 2438 × 3346 自重8.63t
電動機  30馬力 × 2
28〜30 京浜電気工業合資会社 大正15年(1925)製 木製四輪電動客車(単車)
昭和8年(1933)、登別温泉軌道より譲り受けた。
定員50名(座席22、立席28)
寸法(横・幅・高)8128 × 1854 × 3200 自重7.62t
電動機 39馬力 × 2
排1〜2 汽車会社東京支社  昭和6年(1931)製 半鋼製四輪電動排雪車(単車)
客車の改造ではなく、はじめからロータリー・ブルーム式除雪車(ササラ電車)として
製作された。
寸法(横・幅・高)9400 × 2700 × 3745 自重10.16t
電動機 50馬力 × 2   除雪用 30馬力 × 1

車番 備考
1 戦後101へ改番 軌道事業廃止迄就役
2 戦後102へ改番 軌道事業廃止迄就役
3 昭和23年(1948) 北海道炭礦汽船平和鉱業所へ譲渡 1
4 戦後204へ改番 軌道事業廃止迄就役
5 戦後105へ改番 軌道事業廃止迄就役
6 戦後31→231へ改番 軌道事業廃止迄就役
7 戦後107へ改番 軌道事業廃止迄就役
8 戦後208へ改番 軌道事業廃止迄就役
9 戦後109へ改番 軌道事業廃止迄就役
10 戦後210へ改番 軌道事業廃止迄就役
11 戦後311へ改番 軌道事業廃止迄就役
12 昭和23年(1948) 豊橋電気軌道へ譲渡 203
13 昭和23年(1948) 豊橋電気軌道へ譲渡 204
14 戦後314へ改番 軌道事業廃止迄就役
15 戦後315へ改番 軌道事業廃止迄就役
16 戦後416へ改番 軌道事業廃止迄就役
17 戦後217へ改番 軌道事業廃止迄就役
18 戦後118へ改番 軌道事業廃止迄就役
19 戦後319へ改番 軌道事業廃止迄就役
20 昭和23年(1948) 北海道炭礦汽船平和鉱業所へ譲渡 2
 21 は存在しない(空番)
22 昭和23年(1948) 秋田市へ譲渡 秋田市電 22
23 昭和23年(1948) 秋田市へ譲渡 秋田市電 23
24 昭和23年(1948) 豊橋電気軌道へ譲渡 201
25 昭和23年(1948) 秋田市へ譲渡 秋田市電 25
26 昭和23年(1948) 秋田市へ譲渡 秋田市電 26
27 昭和23年(1948) 豊橋電気軌道へ譲渡 202
28 昭和23年(1948) 北海道炭礦汽船夕張鉱業所へ譲渡するも未使用のまま廃棄
(譲渡先が資金難に至り、路線の電化計画が中止になった為)
29
30 昭和27年(1952)スノープラウ式除雪車へ改造 軌道事業廃止迄就役
排1 軌道事業廃止迄就役 昭和31年(1956)旭川電気軌道へ譲渡
排2 軌道事業廃止迄就役



■旭川電気軌道の車両(郊外電車) 昭和48年(1973)1月1日軌道事業廃止
車番 製造・仕様等
6,8,10 梅鉢鉄工所 大正15年(1925)12月製 木製四輪電動客車(単車)
定員50名(座席22、立席28)
寸法(横・幅・高) 9350 × 2487 × 4105 自重8.5t
電動機 26.25馬力 × 2
12,14,16 名古屋電車製作所 製造年不詳 木製四輪電動客車(単車)
昭和5年(1930)名古屋鉄道より譲り受けた(デシ501,507,508)。
定員60名(座席34、立席26)
寸法(横・幅・高)10960 × 2466 × 3430 自重不詳
電動機  50馬力 × 2
18,20,22,24 日本車輌東京支店 昭和5年(1930)8月製 半鋼製四輪電動客車(単車)
定員56名(座席20、立席36)
寸法(横・幅・高)9990 × 2600 × 3860 自重15t
電動機 36.8馬力 × 2
モハ101〜103 日本車輌東京支店 昭和24年(1949)製 半鋼製八輪電動客車(ボギー車)
定員80名(座席30、立席50)
寸法(横・幅・高)12800 × 2720 × 3820 自重20t
電動機 37.8馬力 × 4
昭和24年3月27日、車庫付近の風呂場から出火した火が車庫に引火し車両を焼失したため、新たに購入した3両。
モハ1001 日本車輌東京支店 昭和30年(1955)6月製
半鋼製八輪電動客車(ボギー車)
定員120名(座席60、立席60)
寸法(横・幅・高)18640 × 2700 × 4070 自重30t
電動機 60馬力 × 4
モハ501 日本車輌東京支店 昭和31年(1956)5月製
半鋼製八輪電動客車(ボギー車)
定員100名(座席44、立席56)
寸法(横・幅・高)15940 × 2700 × 4050 自重28t
電動機 37.8馬力 × 4
昭和4年(1929)新潟鉄工所で製作され、定山渓鉄道で利用されていたモハ100形が2100形に車体更新される際、旧車体を再利用して製作された。
コハ051 鉄道省小倉工場 昭和11年(1936)製  半鋼製八輪客車(ボギー車)
定員89名(座席62、立席27)
寸法(横・幅・高)16420 × 2708 × 3675 自重21.1t
昭和42年(1967)に、国鉄キハ05 12(書面上はキハ05 16)を譲り受けたもの。気動車(ディーゼルエンジン)として使用する予定だったが、エンジンの老朽化の為、501や1001に連結され、付随車として使用された。
ロータリー車 昭和28年(1953)8月自社で貨車を改造して製作 四輪排雪車(単車)
無蓋貨車を改造したもので種車は不明。
除雪用電動機 100馬力  × 1
自走はできず、他の電動客車の前に連結して使用した。車番は無かった。
ササラ電車 汽車会社東京支社  昭和6年(1931)製 半鋼製四輪電動排雪車(単車)
客車の改造ではなく、はじめからロータリー・ブルーム式除雪車(ササラ電車)として製作された。
寸法(横・幅・高)9400 × 2700 × 3745 自重10.16t
電動機 50馬力 × 2   除雪用 30馬力 × 1
旭川市街軌道の排1を譲り受けたもの。旭川電気軌道時代は無番号。
ワ24,101〜104 鉄道省から払い下げを受けた木造四輪有蓋貨車(単車)
寸法(横・幅・高)5256 × 2276 × 3420 自重11t
鉄道省時代は、ワ52436、53044、53036、54945、53652であったが改番時の順序は不明
ト31〜33 明治38年(1905)製。鉄道省から払い下げの木造四輪無蓋貨車(単車)
寸法(横・幅・高)5599 × 2240 × 1750 自重10t
鉄道省時代は、14344、14303、14253であったが改番時の順序は不明
トム50001 昭和41年(1966)6月に国鉄から払い下げを受けた木造四輪無蓋貨車(単車)
寸法(横・幅・高)8056 × 2740 × 2255 自重15t
ト32の老朽化の為導入。国鉄時代は、トム54747
セキ1 汽車製造合資会社 明治44年(1911)製。
昭和22年(1947)に国鉄から購入した鋼鉄製八輪石炭貨車(ボギー車)
寸法(横・幅・高)8560 × 2740 × 3435 自重14.9t
国鉄時代は、セキ118
セキ1001 汽車製造会社 昭和9年(1934)製。
昭和22年(1947)に国鉄から購入した鋼鉄製八輪石炭貨車(ボギー車)
寸法(横・幅・高)8628 × 2740 × 3355 自重16.55t
国鉄時代は、セキ1217

車番 備考
1〜5,7,9,11,13,15,17,19,21,23は、初めから存在しない(空番)
6 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷。昭和30年(1955)頃廃車
8 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷後、国鉄旭川工場で修繕し復旧。
昭和42年(1967)のコハ051の導入により余剰となり昭和44年廃車
10 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷後、自社工場で修繕し復旧。
軌道事業廃止迄就役
12 昭和19年(1944)廃車
14 昭和19年(1944)廃車
16 昭和19年(1944)廃車。昭和28年(1953)付随車として復活。
昭和30年頃(1955)廃車
18 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷し廃車
20 軌道事業廃止迄就役
22 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷し廃車
24 昭和24年(1949)3月の車庫火災で損傷し廃車
モハ101
軌道事業廃止迄就役 東川町郷土館に保存

モハ102 軌道事業廃止迄就役
モハ103 軌道事業廃止迄就役
「洞爺湖青少年自然の家」で保存されていたが、1993年頃に解体
モハ1001
軌道事業廃止迄就役 東旭川農村環境改善センターに保存

モハ501 軌道事業廃止迄就役
「洞爺湖青少年自然の家」で保存されていたが、1993年頃に解体
コハ051 軌道事業廃止迄就役
「洞爺湖青少年自然の家」で保存されていたが、1993年頃に解体
ロータリー車 ササラ車の導入後廃車
ササラ電車 昭和31年(1956)旭川市街軌道より譲り受ける。軌道事業廃止迄就役
「洞爺湖青少年自然の家」で保存されていたが、1993年頃に解体
ワ24 ワ104よりも早い時期に廃車(時期不詳)
ワ101 軌道事業廃止迄就役
ワ102 軌道事業廃止迄就役
ワ103 軌道事業廃止迄就役
「洞爺湖青少年自然の家」で保存されていたが、1993年頃に解体
ワ104 昭和42年(1967)12月7日付で廃車
ト31 昭和43年(1968)10月廃車
ト32 昭和42年(1967)10月廃車
ト33 昭和43年(1968)10月廃車
トム50001 軌道事業廃止迄就役
セキ1 昭和29年(1954)大夕張鉄道へ譲渡
昭和62年(1987)7月、大夕張鉄道の廃止に伴い廃車。夕張市へ寄贈
平成11年(1999)三菱大夕張鉄道保存会が発足し修復・整備を実施
平成13年(2001)10月、北海道遺産に認定される
平成19年(2007) 11月30日経済産業省より近代化産業遺産として認定される
セキ1001 昭和29年(1954)大夕張鉄道へ譲渡 セキ2となる
昭和62年(1987)7月、大夕張鉄道の廃止に伴い廃車。夕張市へ寄贈
平成11年(1999)三菱大夕張鉄道保存会が発足し修復・整備を実施
平成13年(2001)10月、北海道遺産に認定される
平成19年(2007) 11月30日経済産業省より近代化産業遺産として認定される


 参考HP
 ・ウィキペディア−旭川市街軌道

 ・ウィキベディア−旭川電気軌道東旭川線

 ・ウィキベディア−旭川電気軌道東川線

 ・三菱大夕張鉄道保存会

 ・ウィキベディア−三菱石炭鉱業大夕張鉄道セキ1形式セキ1形貨車

 ・ウィキベディア−三菱石炭鉱業大夕張鉄道セキ1000形式セキ2形貨車

 ・終わらない旅−保存車・廃車体を訪ねて

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(2008年10月25日掲載)



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