続函館市史資料集
 昭和46年  第1号 葛西民也氏の貴重な文献

 函館市総務部市史編さん室のご好意で、『続函館市史資料集(第1号)』の掲載許可を頂戴いたしました。著者は、函館水電株式会社の函館営業所支配人兼技術部長、函館市議会議員、函館市交通局長、函館市助役などを歴任された葛西民也氏です。葛西氏が昭和42〜43年当時、市史編さん室の嘱託社員だったときに書かれ、昭和46年(1971年)に発行されたもので、函館市における電気事業や市電の歴史を知る上で大変貴重な文献です。大きく分けると「電気買収問題の一裏面史」と「鉄道馬車から市電までのうつりかわり」の二部から構成されています。
 明治〜昭和20年代の函館の電気事業、馬車鉄道、路面電車について、これほど詳細な記述の文献は、他に無いと思います。貴重な歴史の記録を残してくださった葛西氏に感謝いたします。
 すばらしい歴史を築いてくれた先人に感謝をし、未来の子供や孫たちにすばらしい社会を残すことが、今生きている人たちの義務だと思います。その為に、歴史から学ぶことは、たくさんあると思います。
 この貴重な文献を、できるだけ多くの皆様に読んでいただきたいと思い、掲載の許可をお願いいたしましたところ、許可を頂戴することができました。お読みいただいて一人でも多くの方が、函館の街、函館の路面電車を大切に思ってくださることを願っています。
 掲載許可をくださった、函館市史編さん室・室長の紺野様、掲載の便宜をはかってくださった函館市交通局の荒木様に、あらためて感謝申し上げます。
ありがとうございます。


『続 函 館 市 史 資 料 集』(第1号)

まえがき

 多年懸案の函館市史編纂の事業も、昭和四十五年十月に市史編纂事務局が設置され、いよいよ本格的にその作葉が進められることになりました。
 市史の編さんに必要な資料ついては、昭和三十一年から十年間にわたつて逐次刊行された「函館市史資料集」がありますが、なお未完の部分もあり、また新たに開拓していかなければならない分野も多いのであります。
 このようにして、今後調査収集した資料は、大方の批正を仰ぐためにも、また利用のためにも、前記の資料集に続き、「続函館市史資料集」として号を迫つて刊行することにいたしました。
 このたび第一号として出しますものは、昭和四十二年四十三年にかけて市史編さんの嘱託であった葛西民也氏の記述によるもので、氏の手記のような形で書かれておりますが、当時の関係者の目から見た電気事業問題という意味で、得難い資料と考え、事務局でその草稿を整理し、孔版に付して頒布保存することにしたのであります。
 各位の御指導をお願い申し上げる次第でございます。

昭和四十六年三月

函館市史編さん編集長
小島昌平


電気買収問題の一裏面史
 大正三年一月に、函館区と、函館水電株式会社との間に締結された報償契約をめぐつて、函館市が、函館水電の経営する事業一切を買収しよう、ということから端を発したいわゆる「電灯争議」は、昭和八年十月、需要家の電灯、電力料金不払運動展開に対抗して、会社が供給停止の挙に出たことによって、はしなくも全国稀有の長期にわたる大争議に発展した。
 争議の途中私は、函館水電株式会社(本社東京市)函館営業所支配人兼技術部長に補され、争議の矢面に立ち、本社の重役会議にも参与し、一方では争議の相手方とつねに直接折衝に当っていたから、会社首脳部の争議対策、方針、交渉過程等を、ある程度正しく知り得たし、かつ理解できる立場にあった。
 全国的に大きな話題を巻き起した空前の大争議が、昭和十五年全く終止符を打つて解決以来、すでに三十年の歳月が流れ、当時の会社の首脳陣や、幹部社員のほとんどは鬼籍に入り、現存しているのは私一人になってしまった。まことに今昔の感に絶えない。
 ところで、この大争議については、いままでに新聞報道をはじめ多くの文献があり、また著述もあるが、会社側、とくに、現場に立たされた社員側から見た争議関係を、書きまとめたものは皆無といっていいと思う。こんなことから、当時の記憶を呼びもどしつつ、ひそかに書きとめてあったメモをもとにして、真相を書き残しておくことが、私に課せられた責任の一端ではないだろうか、と考えて、以下追想の形で述べてゆくことにした。

 函館の電灯、電力事業および、これに附帯した電車、バス事業は、いずれも函館水電株式会社が経営していた。これらの事業はすべて一区域に一社しか営業を許可されぬいわゆる独占企業であり、その代償として電力供給に当っては、つねに需要家の便をはかり、電力の不足を来たさないよう、社会的な責任を負わされていた。
 函館の電気事業は、園田実徳氏らが設立した函館電灯所が、火力発電所を作つて明治二十九年一月に営業を開始したことによってはじまるが、明治三十九年九月に、渡島水力電気株式会社が設立され、函館電灯所から一切の事業譲渡をうけ、社名を函館水電株式会社と改称した。
 新会社は、大沼の豊富な水を利用して発電計画を立てたが、農民の反対をうけ予定を変更して、銚子口から折戸川沿いに大沼第一発電所を建設した。出力は一、六○○キロワットで、ニニ、○○○ボルトの電圧でこれを函館に送電し、つづいて下流に第二、第三発電所を建設する一方、今後の需要増を見越して大正八年には亀田火力発電所を建設した。このように積極的に電力開発に力を注いだので、私が入社した大正九年春には、総出力四、五〇〇キロワットの発電力を保有するにいたった。
 当時は、一般家庭では石油ランプが使われていて、家庭で消費する石油代と、電気料とでは、比較にならないほど電気代の方が高価だった。従つて市民の間ではランプは使用せぬときは油代がかゝらぬが、電灯は使わぬからといつて消しておいても一定の料金を徴収されるのだから、不経済なものだ、という観念が強かったから、創設当時の電灯の普及率は低くかった。
 しかし、電気会社が発電施設を大型化するにつれ、生産電力の原価も安くなり、電灯料金も値下げされ、市民からランプよりはるかに明るくて取扱いも便利、ランプのように石油を入れる手間、掃除がいらない、危険性がない、等々が次第に理解されてきて、大正年代の後期に入つてからは好景気、も反映して、大巾に需要が増加してきた。
 ところが、会社の方は供給電力の増強に力を注がねばならなくなり、今度は資金の調達という問題がつきまとい、弱少企業財はそれに腐心し、四苦八苦の状態をつづけるようになった。これはなにも函館水電だけのことではなく、道内の小さな電気会社にとっては宿命的な問題だった。
 道内で二大勢力を張つて相枯抗していた、製紙工業の雄である王子、富士の大資本閥にとって、これはまさに格好の獲物というべきで、両者の道内電気会社争奪戦は道央を中心に展開され、まことに熾烈をきわめた。
 このような情勢下にあつて、函館水電の経営状態はどうであったろうか。
 水電の経営陣は、道央の争奪戦を対岸の火災視し、もつばら渡島半島全地域にその勢力を延ばすべく汲々としていた。
 そして、松前水力電気、森水力電気、八雲電気、江差電気、瀬棚電気、戸井電気、椴法華水電等の弱少会社を併合しで、半島全域を傘下におさめるかたわら、磯谷川第一、第二、大野川、相沼内等の各水力発電所を建設、亀田火力発電所の拡張等、絶えず供給力の増強につとめていた。
 しかし、これらの建設費や経営費は巨額にのぼり、会社にとって資金の捻出は容易なことでなかった。
 そういう事情から大正十二年に、会社は市に対し電気料金の値上同意を申請した。しかし、これは市会の同意を得ることができず否決された。
 ここで、大正三年会社と函館市との間に結ばれた、報償契約にふれておこう。この契約がどのような内容をもつものか、知らない人が多いと思うから大略を述べてみると、
 (イ) 区は函館水電株式会社に、電柱支柱支線を建設する区道を無償で使用させる。又軌道敷設のために区道の無償使用を許す。
 (ロ) 右の代償として会社は、その年内の純利益の・・・・・%を区に納入する。
 (ハ) 区の公共施設が使用する電灯、電力の料金は、会社規定料金の二割を減ずる。
 (ニ)電灯電力、電車料金を改正するときは区の同意を必要とする。
 (ホ)この契約の満期の日に、区は会社の営業権と施設を買収することができる。
等がおもな条項で、契約書は全十四条にわたり、これに附随して覚書が取り交わされているのだが、ここでは、全部をのせる煩瑣を避けることにする。
 この契約は、電力は区の発展上必要欠くべからざるもので、そのために区は会社の事業を助成するという趣旨でもあったろうし、又会社は土地占用料の免除で経費節減となるとの、互恵的精神にもとづいて締結されたと思う。この契約が後日市をあげての争議の端緒となることを誰が予想したであろうか。
 このとき締結された契約は、昭和六年十一月で期限がきれることになるので、市は、この日を期して会社に対し事業買収を申し入れ、会社は、この契約によらずに任意売買を主張して相譲らず、ついに争議に突入したのである。
 会社は、市が報償契約の条項によって、買収を申し入れたのに対し、この契約の効力について疑義があるとして、あくまでも任意売買を主張した。市はついに効力確認の訴訟を東京地方裁判所に提起し、さらに電線の空間占用料を賦課した。しかしこれは会社の異議申立が道庁の認めるところとなり、占有料の徴収は差し止められた。
 この結果市長は会社に圧力をかける手段として、会社の収入を断つべく、市民に電灯、電力料金不払い運動を呼びかけ、市民もこれに呼応して水電買収期成会や、水電膺懲連盟を組織して、不払連動を実行にうつした。また各町内の火防衛生組合幹部たちを動員して減灯、滅燭、休灯等の履行を市民に要請し、ついには同情消灯運動にまでひろがつていった。
 こんなことから、市当事者や市民側の、会社に対する風当少が日ごとに強まり、地元出身の水電会社重役たちに非難の声がごうごうとあびせられるようになった。
 当時の重役達は、取締役会長が東京財界の実力者であったほかは、ほとんどが函館市内の経済界の有力者だった。従つて地元の重役達はこれらの非難に耐えず、会社経営の第一線から手を引くことを決意していっせいに退陣してしまった。
 後任は、王子製紙系と、富士製紙の系列に入る北海道電灯系から、数名が選任され、取締役会長に王子製紙社長藤原銀次郎氏、専務取締役に北電専務の穴水熊雄氏が就任した。このように函館水電の経営実権は、地元函館の人たちからはなれてしまったし、地元の株主たちも、その持株を手放しはじめた。これを王子系、北電系の両派は、ときこそ至れとばかり、競って株を買い漁り出したが、道央を中心に勢力拡張に狂奔し、蛾烈な争奪戦を展開してきた両派の魔の手はついに渡島半島にまでのびてきた。
 一方、王子製紙や、富士製紙のような大資本を擁する企業は、自家用の工場用電力を開発し、電力コストを可及的に安価に押さえる必要上、大きな出力を持つ発電所の建設に力を入れ、その余剰電力を、電力不足で困っている電気会社にその刷け口をふりむける必要があったから、両者の余剰電力売込合戦もまた、はなやかなものだった。
 王子製紙は千歳川水系に当時としては道内に比を見ない巨大な水力発電所を建設し、苫小牧工場で消費しきれぬ余剰電力を売買を目的とする札幌電気株式会社に売込み、それを機会に同社の株を買い集め、ついに実権を握り、一方の富士製紙も空知川水系に画期的なダム式水力発電所を建設したのを機会に、いままでの製紙部門から切少はなして、新たに電力部門を独立させて、北海道電燈株式会社を設立した。この会社は旭川を本拠に、釧路、帯広、野付牛(現北見)等、道北、道東方面の主要都市を手中におさめ、後には岩見沢、江別のほか、本州の秋田、山形、郡山、水戸をも掌中にし、余力をかつて札幌進出を企図するに至った。
 両者の激突はなおつづき、王子系は札幌電気乗つ取りに成功するや、資本力にものをいわせて株式を買い占めて経営権を握り、社名を王子製紙札幌電気事業所と改めたが、後日この事業所は、札幌水力電気株式会社と改称された。ついで小樽市の帝国電灯株式会社小樽営業所の営業権を買収して、傘下に収め、小樽、余市、岩内、寿都方面にまで営業区域を拡大したが、そのほかにも札幌で特殊電力を扱っていた札幌送電株式会社をも買収し、道央を一手に掌握したかの感があった。
 これを北海道電力が指をくわえて傍観するはずはなく、新たに札幌まで送電線を延長して大口需要家の獲得に狂奔し、両者間の激突は尽きるところを知らずといったありさまだったが、やがて両者間に話し合いがついて、札幌送電は北電から電力を買い入れることで妥協をみ、表面上両者の暗闘は終ったのである。
 さて、新陣容となった水電会社首脳部は函館常駐として、王子系から神吉英三氏が取締役で来函し、同時に函館営業所には両系から主だった社員の出向をみるにいたった。
 昭和三年四月、函飴市会は、電気料金値下要求を決議し、同年九月には、函館商業会譲所も、電車軌道内の舗装促進を会社側に要望決議をするなど、当時の会社としては到底実行不可能な要求を行ない、攻撃の手は会社のみにとどまらず重役個人に対しても加えられる状態だった。
 そのころ、取締役会長の藤原銀次郎氏が、王子製紙苫小牧工場視察の帰途、函館営業所に立ち寄られたことがあるが、市会議員や会議所議員が藤原会長に面会に来られ、異口同音に会社側の不誠意論をぶちまくり、一方的に会社を攻撃したが、その人たちが帰られたあとで、会長は幹部社員を集め、
 「君たちがふだん市民に親しく接触しておらぬから、市側との感情が疎隔するのだ」と苦言を呈され
 「会社に対してどうしてこうまで非難があびせられるのだろう。函館はもともと企業の進出を歓迎せず、排他的だとは開いていたが、それにしてもあまりにもひどすぎる。実に人気の悪い街だ」と漏らされた言葉を私はいまもはっきり記憶している。
 昭和六年夏、函館市は会社に対し、ふたたび、事業一切の買収を申し出たが、その交渉はいつこうに進展を見ず、市は報償契約効力確認の訴訟を東京地方裁判所に提起し、会社に圧力をかけてきた。
 これだけが原因でけないかも知れないが、王子系の重役達はいや気がさしたとみえ、ついにいっせいに退陣し、函館営業所の王子系出向社員も東京に引揚げさせてしまった。本社では急遽臨時株主総会をひらき、後任の詮衝に入ることになったところ、富士製紙を代表して重役になっていた大川平三郎(富士製紙株式会社社長)、田中栄八郎の両氏も突如辞任を申し出て、その後の総会で決定した陣容の主だった顔ぶれは、専務取締役の穴水熊雄氏を除き、大株主会と称する団体を代表して石津良輔氏、また函館の株主からは大刀川善吉氏らが取締役に選ばれた。
 その年の八月、会社は社員の五十五才停年退職制度を設けて、直ちにこれを実施に移した。このため函館営業所の有田支配人や村田技術部長が退職し、その後任に私が技術部長に任命され、支配人は欠員のまま、当分の間、田村営業部長と私の二人が、合議制で事に当ることになった。
 さきにもふれたが、大株主会というのは、王子系、富士系が放出した株を買いしめた連中だけで組織した会で、その代表を取締役、監査役に送りこみ、自分たちの利益のために、市に電気事業を売り込む算段をしていたようだ。この連中には事業の経営そのものに関心があるわけではなく、株価を引き上げて、それで儲けようとしているのだから、穴水専務もその取扱には手を焼いていた。しかし、反面それを会社側との交渉上に利用していたと思われる節がないでもない。
 そのことを裏書きするかのように、石津重役から「君も会社の株主だからわかってもらえると思うが、大株主会の連中は、買収には絶対に応じないということなのだ」
 ということであった。この言葉は、大株主会の意向を素直に語ったものといえる。
 さらに石津重役は
 「穴水専務は坂本市長を非常に信頼している。いつかの役員会で坂本市長の尽力で報條契約交渉を妥結して、そのあと市長に辞めてもらい、わが社か北電の重役に推挙しようと思つているようだ」と私に話したことがある。
 こんな話から想像すると、当時穴水専務は坂本市長を、買収問題の円満解決に導く唯一の相手として信頼し、かつ接触していたように思えるし、交渉過程の行動や心境にもそれが出ており、坂本市長は穴水専務が自分の考えている方向に話を進めたがつでいるようだと、思っていたのでなかろうか。ところが、そういう意図のもとに進められた交渉も、最後の段階になると双方の思惑は全くちがい、妥結の見込みがなくなり、感情的にも左右に疎隔して平行線をたどる結果になったと思う。
 昭和八年の八月中旬、私は田村部長とともに本社の招集をうけ上京した。会議の席上専務からこの問題について
 「八方奔走したが調停の労をとってくれる人が求められない。函館に適当な人がいないものか」と相談をうけた。
 平素、豪がん不屈で鼻っぱしの強いことでは財界でも定評のある専務の口から、このような話を聞かされた私は、意外に思う反面、専務には調停者について人選の見通しがまだ立っていないことがわかった。
 田村部長からは、
「市内の有力者には個別にあたって意向を確かめているが、市長は、この争議は裁判にかければかならず勝つ、その上で報償契約で買収するのだといっている。しかし市民の中には会社が料金の支払滞納を理由に断線を実施するのではなかろうか、と心配しているむきもすくなくないようだ。市長は、そんなことは絶対許さぬ、かならず阻止して見せる、と約束しているくらいだが、こんな強硬論を吐く市長に対し、調停を買って出る人などは到底あり得ない。また私どもの相談に乗ってくれそうな人もいない」と答え、専務からは、
 「君たちは何かよい方法を考えてくれているのか」と反問があった。これに対し、
 「ここまで事態が悪化した以上料金不払者に対して一挙に断線するのみだ。このことによっていちばん打撃をうけるのは商店や、小工場であつて、その方両から早期解決の要望が強まれば、市長もこれを無視できなくなるだろう。解決の糸口をつかむためには最悪の手段をとるのも止むを得ないのではないだろうか」等の意見を私と田村部長から述べた。
 重役会は毎日ひらかれたが、これといつて良策を見出すことができず、ついに断線決行の命令が専務から出された。
 会議を終えた私たちは、急遽函館へ帰り、幹部社員をひそかに私の宅に招集し、断線決行の案を練ったが、対象戸数は約四五〇戸、小口動力使用者、病院関係、市役所関係を除外、決行は八月二十一日朝七時、ということにきめ、社員は事にあたつて市民との問に不祥事を起さめよう、細心の注意を払うこと、等の細部の打合せを行なう一方、警察署長には決行の前日までに名簿を提出することをあらかじめ打合せておいた。
 決行前日の二十日夜、断線需要家の名簿を警察署長に提出し、二十一日朝を迎えたが、私は早朝から半鐘を打ち鳴らしてどなり歩く声に目覚めて戸外へ出て見ると、十四、五人の一団から、断線について私に対する非難の声をいっせいに浴びせられた。
 この計画は、私と田村部長の外、少数の幹部社員、断線工事を担当する技術員の外は全く知らないことだから、内部から漏れる筈はないのにと思い夜がらも、このように外部に漏れてしまった以上今朝の断線は、紛糾のおそれが出てきたので、中止することが無難だ、と考えていたところ、田村部長から電話で
 「警察署長から、今朝の断線は中止するよう要請があった。署長は、二、三日中に調停者をきめるから、と言っているが」という連絡が入った。
 もともと調停者を求めるのが目的で、断線することを決意したのだが、これは決して良策ではない。さいわい署長が調停者を、という話を出してくれたのだから、私としては願ってもないことだから、そくざに断線中止の指令を出して、この日は事なきを得た。
 一両日たつてから、警察署長から、調停者の人選が終った、不日上京する、との連絡が入ったのでこのことを直ちに本社へ報告した。
 調停に立った人は、某前代議士と、地元産業界の大御所的存在の方だったが、上京後一週間で帰函され、調停は不調に終ったとの報告をうけた。
 後日上京した私は、穴永専務から、「調停というからには、何か新しい打開案でも出るのかと期待したが、さきに市長から申し入れのあった条件を、一方的に呑め、というだけで、まるで市長の代弁者のような主張だった。」と実に不機嫌な表情で話された。
 このように八月の断線は実施することなく終わったが、警察署長の選んだ調停者と、会社側との交渉は不調に終り、争議は依然として続いており、需要家の中には不払いをはじめてから、すてに二ヶ年に及ぶ、という人たちがそろそろ出はじめ、このせまでは料金徴収が時効となるおそれも出てくると思い、定額の不払者に対し、支払命令と電力供給停止の予告を発送するとともに、物件の差押え等ができるよう、保証金供託の準備をすすめた。
 これはもちろん市関係のところにも発送したが、新聞社は、市役所や市立病院などまで会社が断線する計画だ、などと書き立てたので、私は市民感情がいっそう悪化するのではないかとすくなからず心配だった。しかし極端に不穏な動きはなく、市民は期成会、膺懲連盟と、その片棒をかつぐ人たちの一派と、この争読を静観する立場の側と、二分されているようだった。
 八月に入つてから、消灯、減灯の申込者を誰が持つてくるのか、十通、二十通と、ひとまとめにして持ち込まれることが毎日つづいた。
 申込みをうけた工事担当者が、その需賓家をたづねて調べると、大半の家が、そのような申込者を出した覚えがない、判こも自分の家のものではない、とか、火防組合の役員が来て、これに印を押してくれといわれ、別にたしかめもせず印を押して渡した、電気を消されると困るから、工事はしないでほしい、という家が多かった。
 申込書をよく調べて見ると、重複しているものが沢山あつて、本人の知らぬ間に申込書が作られている、などということもわかって来た。しかしこんなことがたびかさなるので、工事担当者は一戸一戸申込書を持つて需要家をまわつて確かめた上で、ほんとに消灯、減灯するという需要家のみ工事を施工した。
 こうしたなかにあつて、買収期成会や、水電膺懲連盟は活発に行動を展開し、各町内の火防衛生組合幹部たちも、市長の命令ということで、家々の電燈の明りの洩れるのを注意したり、店内の電灯を消さぬのはけしからん、などとあるきまわるので、争議にあまり関心心をもためぬ人たちの中では、この人たちに気を使って、心ならずも同情消灯に協調するような需要家も多かった。
 軒灯、外灯はもちろん消され、電車通りの電柱灯すら消されてしまうありさまだったから、街の暗さはいつそう深刻になつてきた。一番困ったことは夜間用件で街へ出る市民だった。
 水電会社を苦しめ、反省させるために、と行なつている消灯運動が、市民生活に暗影を投げる結果になり、商店では夜間の売り上げが激減して商売が上ったりだとなげく人たちも多く、それちらの中には、電気事業が市営になったからといつて、料金が極端に安くなるわけでもないのだから、争議をいいかげんに打ちきって、早く明るい街にしてほしい、という不平不満の声も、ぼつぼつ出はじめていた。
 九月下旬に札幌逓信局長から、会社の責任者に出頭してほしいという連絡があった。私は石田連治嘱託を同行して出札したが、局長室へ入いると、先客として八雲町の米沢勇氏がいた。氏は民政党系の八雲町議で、町民に函館の電燈争議に呼応して不払運動を進めている人である。
 局長から米沢氏に、「年末もそう遠くないし、いつまでも町をさわがせては、一番迷感で困るのは町民ではないか、ここらで運動をやめてはどうか」と提言があり、米沢氏からは「八雲のようなちいさな町で、いくらさわいだところで会社は何ら痛痒を感じないことがわかったから、条件次第ではやめてもいいのだ」という返事があった。
 この条件というのは、八雲町の青年学校々舎建築費として、会社が一万円寄付してくれれば、ということだった。そこで私は
 「金銭で解決という案はおことわりする。局長も承知と思うが、八雲のとなりの森町でも不払運動をはじめようと内々動いているときに、八雲町が会社から寄付金をもらつて解決したとなると、当然森町も同様な話を出すにきまつている。この際無条件で運動をやめるなら、寄付うんぬんについては自分の責任で、後日重役に相談して、貴意に添うよう努力するが」と答えたが、米沢氏は承服しなかった。
 その日の午後、局長室に坂本市長が来られ両者懇談の席上、
 「不払などの運動一切は自分の責任で行なわせている。水電が市の要求を入れるまで、何年でも徹底的にこの運動を続ける決意だ、局長は私に話す前に穴水専務に会つて、市の要求に応ずるよう説得すべきでないか」と終始高姿勢をくずさず、逓信局長の調停はここでも不調に終った。
 札幌からの帰途、八雲町に下車して会社の出張所に出向き、不払戸数がこれ以上増加せぬよう断線を実施することを指令し、工事担当者をして即時仕事にかからせた。
 昼間の工事だったから、断線されたことを知らない家がほとんどで、夕方になつて家の電気がつかないから修理に来てくれ、との申込が頻々と出で来て、係員は応接にいとまない状態だったが、滞納料金を持参する需要家に対しては、時を移さず接線工事に力を入れたので、不穏な状態は一度も起きることなく済んだ。
 二日間で八雲町の不払料金回収はほぼ終り、この街の運動は終息したが、となりの森町の方は八雲町の結果を見て、不払運動を展開せず不発に終った。
 一方坂本市長は、依然として、水電会社が屈服しないかぎり、裁判が確定して事業を買収できる日まで、何年でもこの運動をつづける、との決意をことあるどとに名言していた。私たちは何んとか地元から格好の調停者を求めたいと、有力者を歴訪して懇請したが、岡本商業会議所会頭には、再三懇請したものの婉曲にことわられた。商工聯合会の斉藤栄三郎氏にも再々お目にかかって、懇談を重ねて御意見を伺ったが、氏は「この争議で一番打撃をうけているのは、吾々会員なのだから、一時も早く解決を願つてぃる。しかし、市長があのように強硬なので、とりつくしまもなく、実に困っている」といつておられた。氏と話しておりながら私は斉藤氏の言葉に氏は機会があれば調停に乗り出してくれるのでなかろうか、とほのかな希望を見出した思いだった。
 十月に入ると、消燈、減燈の申込が、ひところあれほどたくさん会社に持ち込まれていたのが、パッタリとまってしまった。調べて見ると、火防組合の役員たちは相変らず戸毎に申込みを集めてはいるが、それを期成会事務所で保管していることがわかった。何千と溜めておいて、一挙に会社に持ち込む作戦だ、と察しがついたのでこの対策を研究し、成案を得たので、その日のくるのを待ちうけていた。
 十月中旬に、本社から、至急上京せよとの連絡が入ったので、断線計画を上申することにきめた。
 しかし今月中に断線実施となると、上京前に関係先と十分連絡しておく必要があり、警察は、さきの実施計画を漏洩したにがい経験があるので、今度は事前通告をせずに決行したい、しかし万一の場合の保安はどうするか、という点で苦慮したが、憲兵隊を依頼しては、と思いつき、深谷隊長を訪ねて事情を説明して懇談したところ、隊長は河村要塞司令官に紹介の労をとってくれた。直ちに司令部へ出向き河村司令官にお目にかかって懇談したところ、司令官は、
 「治安維持のことは承知した。情勢次第では準戒厳令を敷いて強制調停に出ることも考えている。その場合会社が有利になるか、不利になるか、たとえ不利になつても文句をいつてはいかん。いずれにしても、自分の方と十分連絡をとってほしい」ということで承諾してくれた。
 後日深谷憲兵隊長から聞いた話だが、司令官は、「銃砲兵大隊に補助憲兵として百五十名を準備させたから、必要なときは出動させて貴下の指揮下におけ」という連絡をうけていたそうである。
 とにかく、要塞司令官が胸をたたいて承諾してくれたのだから、私と田村部長はこれに力を得て上京したものの、重役会では相変らず打開策は生まれなかった。しかもこの会合には在京中の太刀川取締役が出席していない。そして第一区選出の岡田伊太郎代議士が出席している。どんな立場でこの人が出席しているのか、幹部社員に聞いて見ると、最近顧問になったとのことだった。
 専務から、現地の対策を聞かれ、私からは今度の断線計画を説明し、八月の計画は事前に警察の一幹部が計画を外部に漏らしたため実施できなかったが、今度は憲兵隊と、要塞司令部に実情を話して治安維持についての協力をお願いしてあるが、断線時期は今月中に行なうのが最善策と思うと、計画案にもとづいて説明した。
 このとき上京中に、私は専務から、田村営業部長の解職、田村氏の後任には、北電野付牛(現北見市)支店長の一条豊治氏、葛西は支配人兼技術部長を命ずる旨の内示をうけた。
 このとき以来、私は従来両輪の形でつねに相談しあつて、難問題と取り組んで来た田村営業部長を失ない、すべての責任を持たされて、争議の真正面に立たされることになった。
 専務から、断線についての指令をうけた私は、いそいで帰函しなければならなかったが、この仕事の先頭に立つて働く工事担当者の身柄保証について、会社側から一札取つておく必要があった。そこで強引に専務に交渉し、ようやく保証書を受け取つて帰函の途についた。
 十月二十八日、幹部職員を自宅に招集、極秘のうちに協議して、リストを作り第一次断線戸数を五百五十戸にきめた。決行は三十日早朝とし、断線需要家名薄を司令部に持参、山本副官に提出して、明朝決行の予定、警察には事前通知はしていない、万一の場合の善処方等を依頼したが、先日司令官に懇請して承諾を得ていることもあつて、山本副官は大いに激励してくれた。
 決行当日は午前七時、直接工事を担当する者たちを呼び集め、事前の注意を与え、市民を挑発せぬよう、又万一の保障は会社が全責任を負う旨を申し渡した。出動は四人一組として、遠距離に出動する者から順次二十間坂下の拓銀支店前に行き、待機してあるクルマで出動せよ。作業は最初に、引込線を取付けてある電柱を確かめておき、七時四十分を期していっせいに作業にはいれ、終ったら直ちにクルマで帰社せよ、等々の指示を与えた。
 作業は順調に終り、八時半には全員が帰社したので、確認後憲兵隊と本社の専務宅に委細を報告し、自宅から会社へ出社の途中、徒歩で西川町の市民会館前へ出ると、期成会や連盟の人たち、それに町内の人たちが大勢集つて来て、「とうとう貴様にしてやられた」と口々に叫んで痛罵するのだが、別段ひどく興奮している様子も見えなかった。群衆の一人が、期成会の役員を前にして、
 「市長や君たちは、絶対断線は阻止してみせる、と確約していたが、おれたちはそれを信じていたのに、これは一体どういうことなのか」と食つてかかるという場面もあった。
 会社に出ると、さきほど警察署長から支配人にすぐ来るようにとの電話があったことを知らされた。用件はわかっているし、いま署長と会うのは面倒だと思い、電話で
 「いま需要家の人たちが大勢来ていて、今日いつばい手がはなせそうもないから」とことわると、
 「事前に通告を約しておきながら、無視して断線するとは何ごとだ、騒ぎが起きたらどうするのだ」と大変なけんまくだった。
 前回実施前に漏洩したのは警察側からだったこと、今日の断線については、津軽要塞司令部と憲兵隊に十分協議してあり、隊の方では万一に備え待機していてくれていること等を話して電話を切った。
 さて、断線後のことだが、早朝の作業だったから、ほとんどの家は気づかず、午後電燈のつくころになつてから、故障で電気がつかぬから至急来てほしい、という電話が殺倒しだした。住所氏名を聞いて見ると、今朝断線した家とわかり、そのむねを返事すると、いそいで未納料金を持参して、接線を申し出る人たちがすくなくなかった。
 しかし、一方では、断線された多くの家は、反水電派の強硬派で、またそれに同調していると見なされている人たちが多かったから、そういう連中は面目にかけても接線を願い出るようなことはなかった。
 ところで、その夜私は断線後の街の様子を見てまわることにして、単身会社を出た。
 道を左に進むと地蔵町に出る。地蔵町は会社に対し、料金値下の訴訟をおこし、料金を裁判所に供託し、裁判所は会社にこの分についての供給停止をしてはならぬ、との処分をしていたから、不払をつづけている家でも会社では断線から除外してあった。だから地蔵町だけは暗黒街というわけではなかったが、それでも同情消灯の形で自発的に消灯したり、商店なども石油ランプを吊している家があった。
 鶴岡町に入ると、急にあたりが暗くなり、街灯は全部消え、商店などはランプを二、三つけているだけで非常に暗い。
 若松町は、函館駅や旅館などが平常どおり点灯していて、周囲が暗い街の中では対照的な明るさを示していた。
 駅前から、大門前(現松風町電停)東雲町の電車通り、新蔵前(森薬店附近)に出ると、どの通りも全くの暗闇で、まるで戦時中の灯火管制を思わせるような陰気な風景だった。
 ひととおり断線区域を見てまわった私は、一日も早く争議を解決して、市民生活を明朗にしなければならぬ、と責任の重さをひとしお痛感させられた。
 消灯、減灯の申込書が、一時減ったことは前にも書いたが、十一月中旬のある日の午後、期成会の泉氏を先頭に、膺懲連盟の幹部たちが大勢で旗を先頭にして、会社に押しかけて来た。そして申込者の入った梱包を拾数個受付係に持ち込んで、受取れ、受取れぬ、の押し問答がはじまった。
 泉氏はじめ、代表四、五人と面接することにして応接室に入ると、二十人近くが乱入してししまったので、座席がなく、ほとんどが立ったままの状態になってしまった。泉氏は、消灯申込書を持参したから受取つてほしいという。
どれほどの枚数かわからぬが、梱包十数個といえば莫大な数であることだけはわかる。私は泉氏に、申込書は、一枚一枚に対し、全責任を持つてくれるのだろう、と問うたところ、同氏は責任とはどういうことか、と聞く。
 責任とは法律上の問題だ。いままでにも何べんとなく一括して申込書が持ち込まれたが、その申込書によって一軒ごとに事実の有無を確かめて見ると、みんなてんでに別々なことをいう。会社ではその理由を申込書に記載して、捺印をもらつて持ち帰つているのだが、なかには明らかに偽造したり、印鑑不正行使の疑いのあるものが大分ある。不日告発の手続をとるつもりだ。今日はこばれたものにもそのようなのがまじつているかと思うが、そうなるとあなたたちに責任を取ってもらはなければならない。
その旨の一札をここで書いてほしいが、と述べた。
 泉氏ら期成会の人たちは、連盟の面々が持参した申込書の梱包の中に、そのようなからくりがあることをはじめて知ったようで、一様にびっくりして発言がなくなった。しばらくして泉氏かち、みんなと相談するからこの場所を貸してほしいというので、承知して自分の部屋へ戻っていたが、大分長いこと大声をあげて議論しているのがきこえた。
 やがて相談が済んだと見え、泉氏があらわれて、話し合ったが意見がまとまらぬ、いまここでで渡すこともできないから、責任者をきめて改めて来ることにしたい。それまでこの梱包を一時預ってほしい、という。私はあなた方の重要な品を一刻だつて預るわけにはゆかないから、持ち帰つてほしいと、つっぱねると、泉氏をはじめ一同は苦笑しながら包をすごすごと持ち帰つて行った。
 その後私が退職するまで、この梱包は二度と運びこまれることはなかった。
 こんな状態の中にあつて、私は相変らず市内の有力者を歴訪して調停にたつことを依頼したり、意見を開いてまわったが、見通しは依然として皆目立たなかった。
 本社からは、毎日のように専務から催促をうけるし、その見通しは立たぬ。このころの私は全く八方ふさがりの状態だった。
 岡本商業会議所会頭は調停に立つ気持がないことははっきりしていたから、どうしても、斉藤商工聯合会長、谷副会長のお二人に立っていただくほかに良兼はない、というのが八方ふさがりの私の頭の中にあつて、これがわずかな私の望みの網でもあったから、私はその後も足しげく両氏をたずねて懇請しつづけた。
 こうしているうちに十一月は終り、十二月に月は変った。両氏からはいまだに色よい返事はいただけないが、商工聯合会の組合員側からも、両氏に対し調停に立つことを要望する声が、日を追うて強くなり、やがて両氏も市長が調停に応ずる気があるなら、自分たちが乗り出してもいいが、という意向を洩らされるようになった。これに力を得てなおも懇請しつづけているうちに、両氏は、市長の気持をお前探って見よ、という。
 争議の矢面に立たされている私には、市長の意向を探る、などということは到底できぬ立場にあった。思い悩んである日、父にそのことを打ち明けると、父は即座に「高橋文五郎議長に相談して見よ、あの人は終始争議には中立の立場にあるし、市長を説得できるのは高橋議長以外にあるまい」との意見だった。
 父の言葉は、私にとって天の恵のようにきこえ、まさに暗夜に灯を得た思いで、その夜さつそく高橋議長に電話したところ、すぐ来るようにとのことだった。とるものもとりあえず駆けつけ、率直に自分の気持を伝えたところ、氏はこころよく気持を汲んでくれて、今夜市長を訪ねて見よう、と公宅へ電話をされた。さいわい市長は在宅ということで、氏はさつそく出かけられたが、その際私に
 「仲々むつかしい用件だから、あるいは時間が長びくかも知れぬ、それまでここで待っていてくれ」といわれた。
 ところが、十二時すぎても帰つて来られない。話がこじれて不調になったのでなかろうか、と心配しながらなか待ちつづけていたら、午前二時すぎに、折柄の大雪の中を高橋議長は徒歩で帰つて来られ、
 「市長は斉藤氏らの調停をよろこんでうける、といつておられた」と微笑をうかべなから私に言ってくれるのだった。
氏はさらに「市長は市民に暗閥の中で年末、年始を迎えさせるようなことはしたくない、一日もはやく街を明るくして安心させたいと念願している」とも言っておられた、とつけ加えて話してくれた。そして、帰りがおそくなったのは、和解条件案を練っていたからで、君もずいぶん心配だったろう、と市長直筆の和解条件を書いたものを渡してくれた。
 私が高橋議長宅を辞したのは、午前三時をすでに過ぎていた。ふりつもった大雪は私のひざを埋めるほどの探さだったが、これを漕ぎ漕ぎ家まで歩いて帰る途中、私は寒さも疲れも何ひとつ気にならず、心中はバラ色に輝やく思いだった。
 市長は、従来の言動からみて、報償契約の効力を裁判で確立し、水電会社の事業一切を買収する、との信念が強く、到底調停によって和解しょうなどという気持はないのではないかと、思われてきたし、これがため調停に立つことを考えた人たちも市長は和解に応ずる意志はない、と判断して進んで乗り出そうとはしなかったのだが強気一点張りの市長から和解に応ずる意志のあること、しかもその条件まで明らかにすることができたのは、全く高橋議長の大きな功績であった。
 さて、議長から渡された市長の和解条件の内容だが、それはきわめて常識的なもので、特に大きな難題というべきものはなく、会社側にとって別に不利になる条件は何一つないように私には思えた。
要約すると、
 (一) 報償契約の精神を尊重し速かに買収交渉に入ること
 (二) 会社は速かに断線中の電灯、電力を接線すること
 (三) 接線後の料金は従来通り会社に支払うこと。なお未払料金に
 ついては、改めて両者間で、その支払方法を協議すること
等で、以上のほかにも二、三項があった。
 ところで、第一項の買収、という文字は市長報告書では、売買となつているようだが、私が市長直筆の紙を見た瞬間、市側では買収という文字を使うのが当然だと思ったことを今も忘れぬ。
 高橋議長の配慮で、市長が調停に応ずることも判明したし、その和解条件も示されたので、さつそく東京の専務の自宅に電話報告したところ、専務もその条件なら受けるつもりだ、一日も早く交渉をはじめたいから、調停者に上京してもらうように取はこべ、という話だった。
 このときの専務には、自分から進んで函館に出向くという気特は
全くなかったようだった。
 そこで私は直ちに斉藤氏に会って、市長の示した和解条件の写しを渡し、調停を引受けて下さるよう懇請したところ、氏は、正式にきめる前に札幌逓信局長と、道の警察部長に会つて、意見をきき、また応援を得たいから、至急両者の都合を開いてほしいとの事だった。
 札幌の両者に連絡したところ、逓信局長ほ
 「明後日の日曜日は、定山渓で局内のスキー大会があり、明日からそちらに出かけるので都合がつかぬ」という返事。
 一方の警察部長も
「明日午後から青山温泉ヘスキーに出かけるので都合がわるい」という返事で、どちらもここ二、三日は見込みが立たなかった。
そこで再び電話を入れ、
 「函館市民は一日も早く街を明るくして年末年始を迎えたいと熱望している。この機会を外しては、事が面倒になるおそれもあるので、何んとか両者で話し合つて、定山渓なり、青山温泉で落合って斉藤、谷両氏と会って欲しい」と懇請、さらに両三度電話で打合せた結果「青山温泉で落ち合つて、斉藤、谷氏をお迎えする」という
局長の御好意のある返事をもらい、斉藤、谷両氏に連絡し、その夜の汽車で昆布駅まで直行、そこから馬橇を仕立ててもらつて青山温泉に行つてもらった。
 このときの会談が、新聞記事を賑わした、いわゆる青山会談である。
 斉藤、谷両氏は十七日月曜日に帰函され、その足で私のところへ来られて、「局長も部長もー日も早く解決を願っており、支援は惜しまぬ」と好意ある言葉があり、自分たちは商工聯合会長、副会長の資格で正式に調停に立つ決意である、至急穴水専務の都合を開いてほしい、今年もあと十数日しか残されていないのだから、一日も早く解決して、街を明るくして市民を安心させたい、といわれるのだった。
 私は電話で専務と結し合っていたのでは容易にラチがあくまいと思い、自分が上京して専務を説き伏せて、両氏を迎えることが早道と判断して、両氏の了解を得てその日に急遽上京した。
 さて上京後の私は本社で穴水専務に、市長の和解条件を示し、斉藤、谷両氏が正式に調停に立つことになったいきさつを話し、至急会談の日時をきめるよう提言したが、その日から毎日重役会議がひらかれ、市長の示した条件をめぐつて、論議、検討が加えられたが、容易に結論が出ない。しかも不思議なことには度重なる重役会だったのに、函館出身で在京中の大刀川重役が一度も盗を見せず、顧問の岡田代議士が終始加わつて発言している姿が私には奇異な感じだった。その上、岡田代議士は
 「斉藤、谷とは一体何者だ、俺は全く知らぬ、そんな連中が身のほど知らずに調停を買つて出るとは何ごとだ。俺にまかせて二人の調停をことわつてしまえ。」
と破れ鐘のような大音で暴言を吐く始末だった。私は見兼ねて、斉藤、谷氏の人柄をくわしく話し、「商工聯合会は三千五百余の商工業者を擁し、活動力のもつとも強い連合体である。その正副会長を無力扱いにするとは何ごとか、函館の実情をあまりにも知らなすぎる暴論ではないか」と反論したところ、岡田氏は顔色を変え、
 「そいつらの調停はけっとばせ、政友会の力で押さえつけて見せるぞ」とせでの放言で、実にあいた口がふさがらぬ思いがした。
しかしこうまでいわれては、函館で育った私の血がおさせらぬ。腹の虫を押さえ兼ねて、函館の市民の動き、水電に対する市民感情、等々をキコの勢でしゃベってしまったが、これでようやく岡田氏は沈黙したものの、重役でもない一介の地方幹部社員が役員会の席上で、感情的になつてしまつて、はげしく反論したのだから、すつかり座がしらけてしまった。今にして思えば、私の発言が真っこうから岡田顧問と対立したことから、それがたたつて、やがて私が職を退く破目になった原因をここで作ったといえよう。
 かくして十二月二十五日を迎えたが、役員会はまさに小田原評定の繰り返しで、一歩も前進するところがなかった。何んとか吉報を斉藤氏にもたらせたいと、思うものの、こんな状態では中間報告すらできず、気をもんでおられるであろう、斉藤、谷両氏の心中を察しながらも、連絡することができなかった。
 この日の夕方、両氏から青森棧橋発信で、
 「明日上野に着く穴水氏に合わせよ」という電報が届いたので、そのことを専務に知らせておいた。
 二十三日の朝、ラジオは、良太子の御誕生の吉報を全国に放送した。まさに国民待望久しかった第一皇太子の御生誕である。さつそく専務にじか談判して、慶祝のため、今後三日間無条件で接線して、函館市民に明るい街で奉祝させるべきである、と進言したところ、専務も非常によろこばれこころよく承認してくれた。
 いそいで函館に電話で手配したが、夕方には函館から、一軒残らず接線を完了したとの報告があった。
 上京途中の両氏からも、穴水専務あてに福島駅から、鼻太子ご誕生を市民慶祝の意味で電灯をつけるよう配慮されたし、との電報が入ったが、すでにこのことは会社が自発的に手配をしたことを、両氏とも車中であったから、知らずに心配しつづけておられたことと思われた。しかし、福島をすでに発たれているのだから、知らせるすべもなかった。
 二十四日朝、斉藤、谷両氏が到着され、この日から調停交渉がはじまったが、会社側は重役間の意見が依然としてまとまらず、いつこうに進展しなかった。こんなことから両氏とも、ごうをにやし、夕刻になつてから穴水専務に、
 「自分たちは年末多端の用件をかかえているにもかかわらず、こうしで来ているが、いつまでも滞在はできぬ、明日はぜひともはつき少した回答を願いたい」と申し述べて、その日の会談を終えて宿舎に帰られた。
 翌二十五日は会談に先立つて斉藤氏から
 「今夜の急行で帰函する、切符も寝台も手配してしまった。なんとか話をきめてほしい」と強硬に申し入れを行なった。
 会談の席上でも、専務の語るところは、調停案、第一項にこだわり、「顧問弁護士と相談するから時間を貸してほしい」との一点張り。
 両氏は、あくまでもこの席上で諾否の決定を願いたいと迫るのだが、専務は第一項の字句修正を固執して譲らず、両氏またこれに強く反対し、容易に妥協点を見出すことができず、難航を重ねるのみで、ついに夜に入ったが、しかし了解点に適するにはいたらなかった。そして両氏の出発ぎりぎりの時間まで交渉を重ねた末、ついに両氏が会社側の提示する字句修正を呑むことによって、ようやく妥結を見た。
 しかし、両氏が乗る予定だった急行はすでに上野を発車してしまった。そこで止むを得ず、出発を明日にのばして宿舎の手配をすませたが、調停書の作成は、専務から、明日にという言葉に、あやうく両氏が乗りかけたので、いそいで斉藤氏の尻をつついで合図したので、これに気づいた斉藤氏は、
 「どうせおくれてしまったのだから、徹夜してでも今夜中に仮調停を作成しょう」と強く要望、しかたなく専務もこれに同意して、その場で仮調停書を作成し、双方の調印を済ませたが、時間は十二時十分だった。
 実は、今日の会談にのぞむ前に、私は斉藤氏に、
 「あなたの後ろに座わることにする。私が合図を送ったら、それはどこまでも頑張ってほしい、」と、あらかじめ打合せをしておいたのだった。老かいな穴水専務は独特のかけひきを用いる人だし、たとえどんな口約束をしたからといつて、印を押さない限り、そんなものは平気で破って別に恥と思わない人だ、ということを私は身をもっていままでにも体験していたのだった。
 ところで、この日の会合に列席した人は、函館側から斉藤、谷岡氏の外オブザーバーとして山崎松次郎氏、会社側は穴水専務、石津取締役、それに函館営業所支配人の私、本社の伊藤総務部長、本間総務課長の八名だった。
 このときの新聞社の報道の中には、岡田顧問も列席と報じていたものもあったが、岡田氏は出席していなかった。もし出席していたら同氏一流の毒舌と、傍若無人の振舞で、せつかくの会談もぶちこわしになったかも知れなかったと思う。
 翌朝私は八洲ホテルに斉藤、谷両氏を訪ねたが、谷氏は坂本市長と電話で、条件は貴下の示されたとおりでまとまり、調印も済ませたと報告されたが、この中の、
「貴下の示されたとおり」という報告が、後で正式調停の場で決裂する重要な問題点となったのである。
 東京からの電話報告で、市長は期成会幹部、報道機関等に対し、「斉藤、谷両氏は、自分の提示した原案どおりで会社側に承諾させた。」と発表しているが、両氏が持ち帰った調停覚書には、前にも書いたとおり、会社側の要望を入れて、一部修正されたものであった。だから、十二月三十日の市長室での正式調印の席で、市長から、はしなくもこの点について、はげしい抗議が出され、調印のため本社から来函した石津取締役に、党書をつき返し、石津取締役はそれを受取ってしまった。こんなことから、せつかく斉藤、谷両氏の苦心の調停は画餅に帰し、事態はふたたび振り出しに戻ってしまった。
 党書が石津取締役に渡らず、斉藤、谷両氏に渡されたなら、両氏が再度会社側と交渉という望みもあったのだが、実に惜しいことをしたものだ。
 市長として見れば、谷氏との電話で、調停条件が自分の提示した原案どおりと信じ、外部に発表した手前、これが一部修正された覚書であったことを、素直に受入れられなかったのだろう。
 ところで皇太子ご誕生慶祝のため、日数を限つて接線点灯した会社側は、二十五日に本社で調停覚書に仮調印したこともあつて、期限切れ後もそのままにして新年を迎えた。
 本社の重役の中には、函館の支配人は函館出身の人間だから、市側に対しても市民に対してもどうも態度が弱すぎる。無条件接線の期限は三日間の筈だから、すでにその期限は過ぎている。ふたたび断線すべきだった、支配人が手ぬるいばっかりに、市長もあのような高飛車な態度に変ったのだ、などとさかんに陰口をたたいていたようだ。
 一方市民の中には、調停覚書が正式調印の土壇場で決裂はしたものの、従来あれほど強硬で和解の意志など絶対無いと信じていた市長に和解の意向があることを知つて、争議の解決がそう遠くない機会に行なわれるのでないかとの、希望的な観測する人たちも日ごとに多くなったことも否定できない事実だった。
 話が前後するが、斉藤、谷氏が十二月二十六日朝の急行で帰函された後、本社ではその日の午後に臨時株主総会がひらかれ、函館の太刀川取締役が退任したが、これによって地元函館出身の重役は一人もいなくなった。しかも太刀川氏の後任には、顧問の岡田伊太郎代諌士が選任された。岡田氏は江別町(硯江別市)出身で、第一区選出の政友会所属代議士であった。これより岡田取締役は、東京往復の都度函館に立ち寄つて業務を視るようになった。
 太刀川重役の退任理由は、従来会社では太刀川情報を重視してきたが、とかく的外れが多く、信頼性も薄くて、こんなことが役員会の判断を誤らせた、ということにあった。
 しかし、太刀川重役の退任は函館の地元新聞の反感を買い、こぞって反水田の立場をとるようになり、、太刀川氏の関係していた函館日日新聞も、当然従来の立場を変えて、反水電の急先鋒になっていた。
 一月七日、私は上京することになっていたが、その前に、今後の調停対策の進め方について、期成会の泉氏の意向を確かめるべく、三日の夕刻同氏邸を訪ね、十時すぎまで氏と懇談した。
泉氏の意見は、「このままの推移では会社はふたたび断線を決行せざるを得なくなるだろう。一方市としても会社とこのまま泥沼のような争を繰り返して、街を暗闇にすることは双方共に大きなマイナスになる。沈滞しきった市民の不安な気持をすこしでも早く解消する要があるから、市長とも今後十分話し合って解決の方向に進むよう努力するから、それまで君は断線を見合わせてほしい」ということだった。私は、「その気持はわが社の重役たちにも当然ある筈だ。自分としてはふたたび断線するようなことは、市民感情をさらに悪化させるのみで、決して望むところではない。私の責任で待つうちは断線はしない。ニ、三日中に今後の対策のため上京する。市長にはあなたから十分御相談願いたい、私も会社首脳部に貴意を伝える」と約束して同邸を辞去した。
 七日朝東京についた私は、その足で本社に出頭して専務に会い、函館の状況報告とともに、泉氏の意向を伝え、同時に再断線をせぬ、との承諾を得たが、口約束だけでなく一札を取っておくべきであったと後日悔やんだことがある。しかし、そのときは、熱海に転地療養中の妻を見舞うことで、そこまで気がまわらなかった。
 翌八日昼近く出社すると、専務に呼ばれ、函館営業所支配人兼技術部長の職を解き、休職を命ずるとの内命が出た。解任の理由は、ほかにもあったかもしれないが、私が期成会の泉氏とひそかに会合して酒食を共にしたこと、泉氏に買収された疑いがあるということで、しばし唖然としてあいた口がふさがらない思いだった。

 このことは、岡田取締役と、日ごろ私を仇敵のようににくんでいた山田嘱託が専務に進言があつてこういう結果になったということを後日聞かされたことがある。
 泉氏と会談したことは、二、三の会社の部下に話をしたが、山田嘱託がそれを漏れ聞いて、葛西が極秘裡に泉氏と会ったということを、あることないこと尾びれをつけて、重役に報告したのであろう。それに岡田取締役は、十二月の会議の席上で私が氏を難詰したことを根に持つて、以来私に対してよからぬ感情を抱いていたから、そんなことも今回の罷免の理由に少なからす影響されたのだろう。
 それらのことはともかくとして、私は解任の内命はうけたものの、前職と同待遇で休職となったのだから、特定の担当業務はないまま、毎日出社していたが、すでに函館営業所関係から離れていて、何ひとつ重要なことは聞かされず、つんぼ棧敷に置かれてしまっていた。
 一月十五日に私は正式に解任の辞令をうけ、後任には北電秋田支店長の岩橋武之助氏が発令された。十六日の東京日々新聞秋田地方版には、同氏談として
「函館の争議は葛西のような若僧を支配人にしておくから解決できないのだ。自分が赴任したら、たちどころに解決して見せる」という記事が出ていた。
 岩橋氏は電気技術者としてはその道に知名の人だったし、かつて札幌水電株式会社の専務取締役の経歴を持つ人だけに、氏自身は真剣にそう思っていたのであろう。氏は十六日に秋田から着任し、会社側の指示により斉藤氏に対し、覚書の解消を通達したそうだ。
 私は解任後なお一月いつばいを東京で過していたが、函館では一月二十日以降連日にわたり、全市的に断線を行ない、月末までに戸数五、○○○、灯数三○、○○○、外に動力多数の供給停止を実施したということだった。
このことはうすうす私の耳に入ったが、すでに職を解かれた私には、いまさら何ひとつ発言権はなく、いたずらに心を苦しめるのみで、なすすべもなかった。
 二月に入つてから私は帰函したが、船上から暗黒と化した函館の街を見て、自分の力が足りず多くの理解ある方々に何らむくいることなく今日を迎えた痛恨の気持は消え難いものがあった。
 二月下旬に私は北海道庁主催の南方行見本船で視察団の一員に加わり、台湾、香港、フィリピン等を訪ね、三月二十二日マ二ラで、函館が大火で市街の大半を焼失したとのラジオ放送があったことを聞かされ、函館から同行した一同と共に非常なショックをうけた。
 その夜在留邦人の宅でラジオ放送を聞き、火災が想像以上に広範囲にひろがり、多数の死傷者を出していることを知ったが、どうすることもできず傷心しきりだった。ようやくマニラを出港した船中で、熱海で療養中の妻から、自分の家が全焼したけれど家族一同無事とのことを無電で知らされた。争議中で市民の中には石油ランプを使用している家が多かったから、取扱いを誤まって火災を起し大事にいたったのでなかろうか、などと、一同で語り合っていた。
 帰函して知ったことは、さしもの電灯争議が、三月二十一日の大火を境に、ようやく好転のきざしを見せ、道庁長官と、逓信局長が調停に乗り出し、和解調印の日もそう遠くはないだろうという印象をうけたことだった。
 後日、どんな条件で話しの折り合いがついたのか、調べて見ると、昨年十二月三十日の会談で、市長が猛然反対した、条件の第一項が
「報償契約の効力について、市及び会社間に見解の相違があり、目下訴訟中につき、これに触れざるも」に変つているだけで、他の条項はそう大きく変つてはないことがわかった。
 それにしても昨年十二月三十日の会談に、穴水専務が来函して、親しく市長と話し合つてくれたら、あの時点で解決がついたのでなかったろうか、と私は当時を思い出すといまだに残念でたまらない。水電会社を離れてからの私は、それ以後の、調停和解にいたるまでの経過はくわしく知ることはできなかったから、退任後のことについてはベンを執ることを控えねばならない。
 しかし、私はいま思うことは、あの当時頑固一点張りで、争議の和解など到底受け入れる筈がないと、人からいわれていた坂本市長に、和解の意思があるということを引き出して、その条件まで提示させた高橋市会議長の献身的な配慮と熱意には、頭の下がる思いで、いまも感謝の言葉もないし、私の懇請をうけ入れて下さって、年末多忙の身体を率先して調停に乗り出し、誠心誠意両者の交渉斡旋に尽して下さった、斉藤、谷両氏の労苦に対して心から敬意と感謝の念を捧げたい。第一回の調停は不幸実らなかったけれど、それが土台となつて、話が進展にむかったことは何んといつても大きな功績といえるのではなかろうか。
 三ケ年という長期にわたる電灯争議は全国にその比を見ないスケールの大きなものであったが、さいわいなことに暴力沙汰は一度もおこっていない。このことは坂本市長をはじめ、期成会幹部の統卒力、指導よろしきを得、膺懲連盟をはじめ多数の市民が、フェアープレーに終始して行動した賜ものであったと思う。
 私の在職当時、つねに念頭を去らなかったことは、会社従業員の子弟が通学の途中危害を加えられるようなことがあつては、という心配だったが、そのようなことは一度もなかったし、工事に出動する従業員たちに加えられる暴行や妨害なども、これまたただの一度もなかった。
 期成会や膺懲連盟の人たちは会社へ来て激論をたたかわすことはあつても、その場をはをれると、お互いに笑って話し合えるようなことさえあった。
 自分だけの利害関係にからんで行動するというようなことはほとんどなく、つねに大乗的な立場で双方が対処したから、その間に流れる人間的な感情は、郷土愛につながる共通したものであったと思う。
 この争事をふりかえつて見て痛感したことは、坂本市長以下が、函館水電を報償契約によって事業を買収するという方針を、水電側がこれに応ぜず、市側は報償契約の効力確認の訴訟をおこし、その効力が確認されるまで、水電会社を相手に戦いをいどみ、会社を屈服させる手段として料金不払い運動を展開し、滞納料金は買収実現の際棒引きにし、不払実行者に負担をかけない、という方針が打ち出され、これに呼応して多くの市民が実施に参加したが、実質的にはこのようなことにはならなかった。
ということは、後日会社からは料金を徴収される破目に立たされたのだから、誰一人大きな得をした人はなかった筈だ。むしろ精神的には、電気を消して暗いランプ生活を余儀なくされた負担は大きかったし、一方の会社側としては、打ちつづく争議で減収が重なり、莫大な借入金で経費をまかなわなければならなかったし、争議解決にいたるまでに要した経費もまた巨額にのぼったのだから、結果的に見ると、全国的に大きな話題を投げた、市民ぐるみの電灯争議ではあったが、双方共さほど大きな収獲はなかったといえよう。
 しかし、市当局、市民が一丸となって団結の力を発揮し、会社はこれに対処して、これまた真剣に争議と取組ざるを得なくなり、大きな犠牲と反省を強いられたのだから、無意味な争議であったとはいいきれないと思う。
 函館に育ち、水電会社の幹部社員として函館営業所の全責任を負わされ、つねに争議の矢表に立たされた私は、市民としての郷土愛に燃えつつも、会社側の立場で行動しなければならなかった精神的な苦悩は、筆紙に尽しがたいものがあった。
 争議解決後すでに三十数年を経過した今日なお、私の脳裏には当時の苦悩に満ちた毎日が鮮明に思い出されてならない。
 すでに故人になられた方々の冥福を心から祈りながらベンをおく。

Copyright(C)函館市


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(2003年7月14日掲載)
 

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