博軌電車(九州水力電気)
 除雪車の故郷  西日本鉄道のルーツ

函館市電には、かつて6両の除雪車がありました。雪1〜雪6号(正式には排1〜排6号)の6両です。これらの6両はいずれも中古車で、他の鉄道から購入したものです。客車から除雪車への改造は、6両全て函館で実施しています。雪2号の故郷は、千葉県成田市の成田電気軌道株式会社です。雪3号〜6号は東京市電です。雪1号については鉄道雑誌でも単に「九州車」として紹介している例がありますが、具体的には「九州水力電気株式会社(博軌電車)」と考えるのが一番妥当だと思います。

函館市交通局発行の「走りました80年」の89ページには「大正4年(1915)11月に博福電鉄(推)から購入」と書かれていますが「九州水力電気(株)の博軌電車」のことを指していると思われます。

「帝国鉄道院年報」によると、大正3年の「九州水力電氣」の客車数は「40輌」、それが大正4年には「34輌」に減っています。この減った6両の内の5両が函館に来たと考えられます。「九州電燈鉄道(福博電車)」や「九州電氣軌道」については、それぞれ54輌と40輌で、これは大正4年でも同数になっており動きがありません。ですので、九州水力電気から購入したと考えるのが妥当のようです。
当時、函館の路面電車を運営していた「函館水電」の客車数は、大正3年、4年のどちらも「30輌」で報告されています。函館水電(株)の事業年度は6月〜11月、12月〜翌年5月でしたので、大正3年12月から始まる事業年度の始めの頃に既に購入が決まっていて、実際に到着した4年の11月よりも前の段階の大正3年の報告に含めたのかもしれません。大正3年の年報では、九州水力電気と函館水電で5両分について、重複した報告になっているようです。

福岡で最初の路面電車は、1910年(明治43年)に開通しました。これは関西資本の福博電気軌道によるもので、「福博電車」とよばれていました。翌年には、地元の渡辺与八郎を中心とする人たちが出資して博多電気軌道を開通させます。こちらは「博軌電車(はっきでんしゃ)」と呼ばれました。博軌電車は、渡辺与八郎の死後、すぐに経営不振に至り、九州水力電気(株)に合併されます。しかし合併後も博軌電車の名前は残りました。
博軌電車は、1934年(昭和9年)に福博電車に統合されました。そして1942年(昭和17年)には、西日本鉄道株式会社に統合され今日に至っています。

博多呉服町を走る博軌電車(『チンチン電車80年』より)

博軌電車からやってきた5両の九州時代の車番は不明ですが、函館では26〜30号になりました。

(函館名所)末廣町十字街通り(函館要塞司令部御許可
s.laylaさん所蔵の絵葉書−許可を得て掲載

大正時代に発行された絵葉書ですが、s.laylaさんのご好意で掲載させていただきました。この絵葉書には、九州水力電気から購入したと思われる車輌が写っています。車番は28にも見えるのですがはっきりとはわかりません。側面の腰板が2枚なっていて、屋根が2重になっているのが特徴です。成田から購入した車輌と比べると、屋根の形が少し違っていて、成田車よりも少し横幅がズングリしたような形をしています。

その後の26〜30号ですが、1両を除いて長くは活躍できませんでした。
先ず、1926年(大正15年)1月20日の新川車庫の火災で、5両の内3両が焼失しています。同年の4月26日付の「車輌使用廢止届」には次のように書かれています。

大正四年拾臺月拾貳日附北海道廳指令第七五八七號認可電車五臺中消失
第貳拾六號、第貳拾七號及第貳拾八號ノ参臺


26号〜28号の3両が消失した事が書かれています。残ったのは29号と30号の2両です。

1934年(昭和9年)3月21日の函館大火では、残りの2両の内1両が消失しています。同年の4月12日付の「車輌消失届」には次のように書かれています。

四輪電動客車 一輌 大正四年十一月十二日道廳指令第七五八七號認可
番號 三〇號


30号が消失し、29号だけが残りました。
鉄道雑誌には、30号が雪1号に改造されたように書かれている場合もありますが、30号ではなく正しくは29号です。

1936年(昭和11年)に成田車の39号(→雪2号)と共に除雪車へ改造されて雪1号となりました(届出は1937年4月22日)。小熊米雄氏の1963年(昭和38年)当時の調査によると、この車輌には「川崎造船所兵庫鉄道部製作 明治44年4月」の製造銘板がついていたそうです。博多電気軌道の設立が明治43年の3月ですから、博軌電車では新車としてデビューしたのだと思います。博軌電車が初任地だったのでしょう。

他の4両に比べて29号はずいぶん長い間活躍することができました。除雪車に改造された雪1号時代のほうが活躍期間は長かったわけですが、惜しくも1997年(平成9年)に廃車となりました。しばらくの間、車体は駒場車庫で保管されていましたが、2002年1月にアメリカのメイン州にある「シーショア路面電車博物館」に寄贈されました。このとき雪6号(元東京市電)も一緒に寄贈されています。シーショア路面電車博物館では、「雪1号と6号を合わせて1両にする」といったお話もおききしましたが、現在どうなっているかは未確認です。ブリル21E型の台車は希少価値が高いので、アメリカの路面電車の復元に流用されたのかもしれません。(注)


雪2号が「箱館ハイカラ號」として復元されたのは、とても幸運でした。雪1号が「博軌電車」として復元されていれば、九州の路面電車が函館で走っているということで、西日本鉄道や福岡県の方々との親交も深まったのかもしれません。


(注)「シーショア路面電車博物館」にお勤めのDaniel Cohen様からのお手紙によれば、その後、雪1号と雪6号の部品は、アメリカの単車保守の部品として流用されたそうです。


■参考文献

  ●『(函館名所)末廣町十字街通り(函館要塞司令部御許可)』
   −s.laylaさん所蔵の絵葉書

  ●大正15年4月26日付『車輌使用廢止届』
   −国立公文書館で保管

  ●昭和9年4月12日付『車輌消失届』
   −国立公文書館で保管

  ●『凾館市電の除雪電車 その雪1,2号の来歴について』(小熊米雄氏)
   −「鉄道ファン」誌1963年(昭和38年)1月号(通巻No.19)

  ●『走りました80年』−函館市交通局

  ●『チンチン電車80年』−東京出版企画社編 立風書房

  ●『総説:西日本鉄道』(西日本鉄道株式会社広報室広報課)
   −「鉄道ピクトリアル」誌1999年(平成11年)4月臨時増刊号
    (通巻No.668)

  ●『福博電車の憶出』(杵屋榮ニ氏)
   −「鉄道ピクトリアル」誌1966年(昭和41年)7月号(通巻No.185)


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『 (函館名所)末廣町十字街通り』の掲載につきましては、s.laylaさんのご好意により、所蔵されている絵葉書を使用させていただきました。
s.laylaさんは、戦前の貴重な絵葉書をたくさん所有されていらっしゃいますが、これをホームページで公開していらっしゃいます。
昔の貴重な文献を公開してくださることは、とてもありがたいことです。貴重な文献を絵葉書という形で後世の私達に残してくれた先祖に感謝する意味でも、子供や孫達に正しく歴史を伝える意味でも、とても大切な事だと思います。

「絵葉書の世界「

許可をくださった、s.laylaさんにあらためて御礼申し上げます。
ありがとうございます。(2003年6月15日)
 


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