昔の車両のご紹介
50型(旧500型)  47〜52 → 50〜55 →後に 501〜506 へ改番

(凾館)湯の川温泉場電車待合所 (函館要塞司令部御許可)
(函館小島大盛堂)大正時代の絵葉書−光司所蔵
      
ボギー車47号。津軽要塞になる前の函館要塞時代、つまり大正時代の絵葉書です。(2003年6月6日 追加掲載)


1921年(大正10年)8月5日に、大型木造電動4軸2軸8輪ボギー車2両が就役しました。
定員は74名で特等室が20名、普通室が54名でした。1両で、特等室と普通室に区切られていたのです。特等室と普通室で乗降口が別れておりました。およそ3分の1が特等室で、鏡や豪華なシートが取り付けられていたようです。全部で6両でしたが、残りの4両は同年〜1924(大正13年)の間に就役した模様です。
製作は堺市の梅鉢工場です。台車は米国ブリル社76E型、電動機はGE231Aで50馬力のものが2個取り付けられていました。
1954年(昭和29年)頃、交通局の交通部長
1946年(昭和21年)より交通局長として勤務されていた
葛西民也氏が、函館水電当時に設計されたものです。

旧500型(大正12年)
     函館市交通局 『市電50年のあゆみ』より−交通局の許可を得て掲載


その色合いから、「チョコレート電車」という愛称があったそうです。
大型車である為、カーブが急な路線を走ることができず、湯の川−大門間の運転でした。
1923年(大正12年)2月3日、2両の特等室に電熱器による車内暖房試験を行い、良好な結果を得た為、全6両に正式な装置を設置すべく東京へ発注しましたが、9月1日の関東大震災により装置の納入の目処が立たなくなり、暖房装置の設置は実現しませんでした。
1924年(大正13年)6月5日より特等室を廃止し、全て一般車としました。

1926年(大正15年)1月20日に新川車庫で火災が発生し、6両の内2両が焼失しました。焼け残った台車を流用して、1台は函館水電株式会社技術部工作係車庫で製作し、もう1両は堺市の梅鉢工場へ車体製作を依頼しました。このときの残った4両と車体焼失2両の内訳は不明ですが、残った4両(47,49,50,51号)については、火災後50〜53号に改番されています。
47→50、49→51、50→52、51→53という改番かもしれませんが、50→50、51→51、47→52、49→53という改番のほうが自然だと思います。どのような改番だったかは、記録がみつかりません。(2003年8月17日追記)

1927年(昭和2年)5月に2両が就役し、もとの6両の状態に復活しました。復活した2両は、54号と55号の車番になった模様です。

昭和5年に発行された『最新電動客車明細表及型式図集』に55号の設計図が掲載されています。昭和2年5月、自社工場製とありますので、54号が梅鉢製と考えられます。(2003年8月17日追記)

車体番号が500番代の501〜506に改められた件についてですが、
当初は新川車庫火災後であると考えておりました。
しかし、昭和6年5月11日昭和7年5月10日撮影のボギー車52号の写真が存在する事を知りました。
      
東川橋(現 昭和橋)架替工事の仮設橋を渡る52号(昭和7年5月10日)
北海道写真史料保存会所蔵(許可を得て掲載)



また、函館市交通局発行の「走りました80年」には、昭和7年当時に撮影された54号の写真が掲載されています。はじめは、この54号は単車だと考えました。新川車庫火災で焼失した単車の54号を再生したという考えを改め、ボギー車の54号であるという考えに改めました。それは、「大門から湯の川へ引き返す」という事から、ボギー車が「専ら湯の川−大門間を受け持った」という史実に、より符合するからです。
また、写真の一番右端に、片足を上げて電車に乗り込もうとしている人の姿が写っています。電車の手前の人物と大きさを比べた場合、単車よりも長い距離であると推定いたしました。本当は、現代の電車で撮影実験をして確証を得たいのですが、そこまでは行っておりません。
ちなみに、54号の車番の向って左側には横書きで「日五廿月三」と書かれ、また、縦書きで「電氣デー」と書かれています。3月25日の電気記念日に撮影されたものと考えられます。
      
大門から湯の川に引き返す電車54号(昭和7年頃)
函館市交通局 『走りました80年』より−交通局の許可を得て掲載


以上のようなことから、501〜506に改められた時期は、昭和7年の後期若しくは昭和8年頃ではないかと考えました。残念ながら、501〜506の車番をつけた当時のボギー車の写真が見つからず、推定であり、改番の時期は特定できません。

他の都市にも自慢のできるボギー車でしたが、1934年(昭和9年)3月21日の函館大火により、6両全てを焼失してしまいました。 前のページへ戻る
(2001年10月27日/2002年1月6日一部追記・訂正)


その後の調査で、50〜55号は、500番代へ改番されていない事を
確認いたしました。「旧500型」というのは、昭和23年〜25年にかけて製作された500型に対比して使われた言葉であり、50〜55号が500番代へ改番された事を意味するものではありません。
昭和9年4月12日付の「車輌焼失届」の記録が残っており、
内容を確認することができました。
焼失届の中で、ボギー車6両については、次のように記述されています。

・ボギー八輪電動客車 四輌 大正十年十二月廿七日道廳指令
               第四七〇〇號許可 番號五〇−五三號


・全上 二輌 昭和四年一月十九日監第三三號許可 番號五四・五五號

つまり、函館大火で焼失した時点の車番は50〜55号だったのです。

(2002年5月4日追記)


旧500型の写真の掲載につきましては、函館市交通局より発行の
『市電50年あゆみ』より掲載させていただきました。 また54号の写真の掲載につきましては、『走りました80年』より掲載させていただきました。
許可をくださった、函館市交通局長の岩船様、 ご担当の加藤様、 そして函館市交通局の皆様と、便宜を図ってくださった田澤様に御礼申し上げます。
ありがとうございます。(2001年12月22日)
   
52号の写真の掲載につきましては、北海道写真史料保存会のご好意により、所蔵の写真を掲載させていただきました。
許可をくださった、事務局長の亀岡様に御礼申し上げます。
ありがとうございます。(2002年1月6日)  

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