300型の車番変更
 300型の車番  昭和45(1970)年〜46年にかけて行われた車番変更

 300型は、昭和11年(1936)、帝国電力株式会社運輸部工作係が設計しました。設計担当者の名前は分かりませんが、50型や500型を設計した白旗技師が担当したのかもしれません。製造は、函館船渠株式会社(現在の函館どっく)が担当しました。木製の車体は、「自社設計」かつ「自社製造」によって、帝国電力の前身である函館水電株式会社が行っていました。ですが、半鋼鉄製の電車の製作は、函館水電でも帝国電力でも行われたことはありませんでした。300型は、北海道で初めて製作された「半鋼鉄製の電車」です。

函館駅前の309号(昭和33年8月22日) 撮影:高井 薫平様


 300型は15両製造されました。現在残っている車両は、港祭りの期間中に走行する花電車(装飾車)の3両と、「北海道開拓記念館」(札幌市)に寄贈された1両の合計4両です。花電車の3両は、車体の大部分は取り除かれ改造されました。寄贈された1両は原型を留めています。

 輸送力の増強を図るため、昭和45年(1970)2月に都電10両を譲り受けると、300型は予備車となります。5月20日付で7両が除籍(廃車)となり、交通公園に展示された312号を除く6両は11月10日若しくは11日に梁川車庫で解体されました。

 昭和46年(1971)4月10日に、除籍されず残った8両の内、302〜307号の6両が使用され、さよなら運転が実施されました。除籍されなかった8両の利用方法は、当初の計画では、「工事牽引車として1両」、「装飾車へ改造予定が3両」、「除雪車へ改造予定が4両」でした。装飾車への改造は計画通り実施され、305〜307号の3両が昭和46年の夏から装飾車として使用されました(装1〜3号)。工事牽引車として使用される予定の301号は、昭和46年8月20日付けで廃車になります。廃車後は、客車としては使えなくなりますが、工事牽引車や作業車の目的であれば、工作器具として扱われ存続することは可能です。ですが、残念なことに昭和55年(1980)若しくは56年頃に解体されてしまったようです。

駒場車庫の301号(昭和53年8月26日) 撮影:多田 真也太様

 除雪車へ改造される予定だった4両ですが、計画は中止となります。4両は、既存の除雪車(ササラ電車)6両(排1〜排6)へ部品供給を行い、更新修繕に役立てることに変更になったのです。そんな中、昭和47年(1972)に、4両の中の1両である313号が「北海道開拓記念館」へ寄贈されることとなり、6月29日に函館から札幌に向けて旅立っていきました。残った3両が、実際に除雪車に対して部品供給を行ったのか、行わなかったのかですが、排2号(雪2号)に関しては、昭和46年(1971)7月から翌年にかけて、老朽部分の解体補修や、廃車の300型の空気ブレーキ制動機を流用した改善を施されたようです。「鉄道ファン1972年12月号(No.140) 函館市電便り(佐々木和夫氏)」の記事によれば「常用動機を手動制動機から空気制動機に改良(これは廃車となった300形の直通空気ブレーキSM-3形とDH-10形電動コンプレッサーを流用 )」とあり、2号車限定ではなく、他の除雪車に対しても300型の部品を流用して改良が行われたようです。

 300型の車番変更についてですが、これは鉄道雑誌「鉄道ファン」からの情報です。ご説明をするために一部引用させていただきます。

1971年2月号(No.118)
REPORT 函館市電近況  佐々木 和夫

300形について
300形は、45年5月中旬に営業線から引退し、全車15両のうち302・303・308〜310・312・314の7両が廃車となった。このうち312は児童施設用として梁川町の交通公園に搬入されたが、保存ではないので、車内は子供たちによって荒らされてしまった。他の車は、11月11日もしくは10日から梁川車庫内で解体された。

残った8両は301〜308と改番され、46年度以降に工事牽引車・・・1、除雪車・・・4、装飾車・・・3にそれぞれ改造の予定である。

原文では「11月19日から梁川車庫内で解体された。」と書かれていますが、7月号(No.123)に訂正記事(11月19日ではなく11月11日もしくは10日)とありますので訂正済の文書にしています。


上記を整理するために、次のように表にしてみました。

車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の廃車
廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車
解体 解体 解体 解体 解体 交通
公園
解体
改番後(案1)? 301 304 305 306 307 302 303 308
改番後(案2)? 301 302 303 304 305 306 307 308

ただ、

 残った8両は301〜308と改番され、46年度以降に工事牽引車・・・1、除雪車・・・4、装飾車・・・3にそれぞれ改造の予定である。

というこの一文には問題があります。

(解釈1)
残った8両は301〜308と改番され 残った8両は301〜308と改番が実際に行われた。
6年度以降に工事牽引車・・・1、除雪車・・・4、装飾車・・・3にそれぞれ改造の予定である。

と解釈できますが、

(解釈2)
残った8両は301〜308と改番され 残った8両は301〜308と改番される予定である。
6年度以降に工事牽引車・・・1、除雪車・・・4、装飾車・・・3にそれぞれ改造の予定である。

2つとも予定のようにも解釈できます。異なる2つの事象を、ひとつの文章で書いて予定で締めくくると、このような誤解を招きます。どちらにも解釈できる為、好ましい書き方とはいえません。

 また、実際に改番が行われた場合でも、案1のようなやり方もあれば、案2のようなやり方も考えられます。この2つ以外のパターンもありますが、あまり複雑にすると、元の車番は何号車だったのか、管理上不都合が生じるので、複雑な変更はしなかったと思います。案1の場合なら301及び304〜307号の5両は変更の必要がありません。この可能性が一番高いと思います。ただ、この記事が書かれた段階では、改番も予定の段階で、実際に行っていなかった可能性もあります。


次に、鉄道雑誌「鉄道ファン」1971年7月号(No.123)を見てみましょう。こちらもご説明をするために一部引用させていただきます。

1971年7月号(No.123)
函館市電300形単車姿を消す 千歳 篤

4月10日、さよなら運転を午前10時30分から午後3時30分まで
2系統(柏木町−谷地頭町)松風町経由
3系統(湯の川温泉−十字街)万台町経由
5系統(湯の川温泉−末広町)松風町経由
8系統(五稜郭駅前−函館ドック前)内回り
10系統(函館ドック前−五稜郭駅前)外回り
の各系統に2両ずつ配車、ツーマンカーで運転し、乗客に記念乗車券の車内販売と共に絵葉書を贈呈した。

使用車両の6両(302・303・304・305・306・307)は最後のメーキャップ?
ビューゲルフレームを紅白の布で巻き、屋根四すみに函館市旗を掲げ、屋根ふちに飾りモールを下げ、両側窓下にモールふち飾り看板に「300形さようなら運転、市民のみなさん長い間お世話になりました。函館市交通局」と別れの徴意を表わした。

小 史

中古木造単車46両の中に登場した300形は、「新車」、「鋼鉄車」と乗務員や市民に愛称され、降雪期を迎えて自重9.653tと主電動機35馬力は軌条面に凍結した氷雪を破砕し、運行障害排除に「鋼鉄車」の威力を発揮した。

太平洋戦争中は唯一の中堅車として活やくしたが、補修資材の窮乏と部分品の補充難で、戦後ついに部分品の共食いで完全車10両の維持に苦難が続いた。幸い昭和23年秋新造ボギー車500形10両を迎えてから、ちく次300形5両の休車も再起した。その後、トロリーキャッチャー・非常用手回し制動輪の撤去、ビューゲルの改装等を行ない、現状になった。

昨年2月東京都電7000形ボギー車10両が来てから予備車となり、同年5月20日付で8両(306・307・308・311・312・314・315)を除籍、314号車は交通公園で児童の遊び仲間として余生を送っているほか、301号車が作業車として残存し、また装飾車に3両、除雪車に4両改造の計画があるが、詳細は未定。

非常に貴重な文書を残してくださったことには感謝いたしますが、上記の文書にも、問題があります。

昭和46年(1971)4月10日にさよなら運転が行われたことに関する記事ですが、2系統、3系統、5系統、8系統、10系統の各系統に2両ずつ配車ですと、10両必要です。ですが、佐々木氏のレポートにあるように、1両は交通公園に展示され、6両は昭和45年11月に解体されているわけです。15両から7両を除くと8両しか残っていない計算になります。10両は配車できないのです。さらに使用車両は6両(302〜307号)とあります。本当に各系統に2両配車できたのかどうか、わかりません。5つの系統に同時に2両投入したのではなく、例えば2系統での運用が終わったら、同じ車両を3系統に投入したとか、そういうことだったのでしょうか?残念ながら、その辺のことが不明確な文書になっています。

小史の部分ですが、「昭和23年秋新造ボギー車500形10両を迎えてから」とあります。500型の第一ロットは15両でしたが、何故10両が先行し、5両が遅れたのか、残念ながらこの文書ではわかりません。ですが、この文書から、ひとつの可能性として23年10月完成は501号だけでなく、501〜510号が10月製造で、511〜515号が11月製造であったというふうにも考えられるわけです。いずれにしても、500型10両は、昭和23年秋には函館に到着していたことを示す、貴重な文書であると思います。


中古木造単車46両の中に登場した300形は...」という部分は史実とは異なります。300型が誕生した昭和11年当時、函館の路面電車を運営していた帝国電力の在籍車両は次のとおりでした。

3,7,9,12,13,15(梅鉢製)
104,105(梅鉢製)
118,120,123,128,132,140(自社車体更新車)
201〜245(元東京市電ヨヘロ)
雪1(元 九州水力電気・旧函館水電29号)
雪2(元 成田電気軌道・旧函館水電39号)

全部で61両です。これに300型の15両が加わって全部で76両になりました。

千歳氏は、「鉄道ファン」1970年5月号においても貴重なレポート「都電7000形太平洋を北上」を残してくださっています。その中で、都電10両の旧車番と函館における1001〜1010号の1対1の対応を明確にしてくださいました。これは大変貴重な文献です。ですが、記事の中で歴史誤認をされている部分があります。都電7000形の導入についての文書を、一部引用させていただきます。


昭和9年函館大火の復旧として中古木造単車35両を東京市電気局から譲り受けたのに次いで二回目の「はこだて」入りとなった。


この記述は違います。当時、函館の路面電車を運営していた帝国電力は、昭和9年〜10年の間に5回に分けて45両のヨヘロ車を譲り受けました。35両ではありません。帝国電力の昭和10年当時の1対1の新旧車番対応表も残っています。また、「二回目」というのも違っています。

1回目:大正6年に5両、 函館水電31〜35号

2回目:大正14年に単車で7両、函館水電53〜59号
(50型ボギー車が50〜55号に改番される前、ボギー車47〜52号であった時代に東京から単車を導入)

3回目:大正15年の新川車庫火災後の20両、函館水電 旧201〜220号(後に自社で100型へ車体更新)

4回目:昭和9年の函館大火後のヨヘロ車45両、帝国電力 新201〜245号(ササラ電車2両が生き残り)

5回目:昭和15年、京王電気軌道株式会社より6両、大日本電力401〜406号

都電7000形10両の函館入りは、江戸っ子車両としては6回目です。2回目ではありません。



話を300型に戻しますが、こちらも整理するために、次のように表にしてみました。
ちなみに、「314号車は交通公園で児童の遊び仲間として余生を送っている」は、史実とは異なります。312号が正解ですので、その点は修正して作成してみます。

車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の廃車
除籍 除籍 除籍 除籍 除籍 除籍 除籍
交通
公園
改番後? 301 302 303 304 305 306 307 308

この文、

 同年5月20日付で8両(306・307・308・311・312・314・315)を除籍

も問題のある文書です。

「8両」とあるのに7両分の車番しか書かれていません。1両足りないのです。佐々木氏の場合は「7両が廃車となった」と書かれています。ですので、

(誤)同年5月20日付で8両(306・307・308・311・312・314・315)を除籍
(正)同年5月20日付で7両(306・307・308・311・312・314・315)を除籍

であると考えられます。同年とは、昭和45年(1970)です。

ですが、まだ問題があります。昭和46年4月10日のさよなら運転では、

 使用車両の6両(302・303・304・305・306・307)は最後のメーキャップ?

とあります。

これはどうしたことでしょう!昭和45年5月20日付で除籍したはずの306号と307号が、昭和46年4月10日のさよなら運転に登場しているではありませんか!.......。これはどういうことでしょうか?車番の記載に間違いがあるのでしょうか?車番の記載に間違いが無いとすれば、考えられることは、改番です。千歳氏は改番についてはふれられておりませんが、この矛盾を解決できるとすれば、7両が除籍された昭和45年5月20日から、さよなら運転が行われた昭和46年4月10日の間のどこかで、改番が行われたということであると思います。


困ったことに、佐々木氏の廃車・解体の車番と、千歳氏の除籍の車番には食い違いがあり、矛盾しているのです........。
さらに調べてみると、同じ年の11月号には次のような記事が掲載されています。

1971年11月号(No.127)
函館市電その後の300形 佐々木 和夫

今年の電動装飾車は、本年4月10日に引退パレードをした300形3両を改造したものである。写真でごらんのとおり、前面のライト部分の側板のみを残して車体を撤去した上に旧装飾車(104〜106)の装飾用柱をのせたのである。また、車体番号は1〜3に改められたが、旧番号は302〜304(これは書類上で、実番号は305〜307)である。

2.ラッセル化計画
残った4両は、当初の計画からラッセル車にする予定であったが、この計画は一応中止され、現ラッセル車の一部を改良し、これに300形の部品を流用して更新修繕を計ることとして、現在ラッセル2号によって試みが進められている。もしこれが成功すれば、明治・大正生まれのこのラッセルが、今後も長く在籍することになる。


写真を併せてご覧頂くほうが分かりやすいと思いますので、平成6年(1994)当時に内藤様が撮影してくださった写真を、掲載させていただきました。

駒場車庫の装1号(旧305号)(平成6年11月) 撮影:内藤 誠様


花電車に改造された300型の旧車番は305〜307号であった旨が書かれています。このへんの情報も加味して、佐々木氏と千歳氏の記事を表にして整理してみます。





車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の廃車
廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車
解体 解体 解体 解体 解体 交通
公園
解体
改番後 301 304 305 306 307 302 ? 303 ? 308 ?
用途等 工事
牽引車
ラッセル
化中止
花1 花2 花3 ラッセル
化中止
ラッセル
化中止
ラッセル
化中止


車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の除籍
除籍 除籍 除籍 除籍 除籍 除籍 除籍
改番後 301 302 303 304 305 306 ? 307 ? 308 ?


 当HPでは、佐々木氏の記事をもとに改番があったものと考えています。千歳氏の記事も大変貴重であることには変わりは無いのですが、交通公園に置かれた車両の車番が314であったり(正しくは312)、5月20日付の廃車について8両の記述があったり(車番は7両分の記述のみ)、昭和45年5月20日に除籍となった306、307号が昭和46年4月10日のさよなら運転で再び登場している点に関する説明が無い点、(除籍すると客車としては営業線を走行できません。車番の記述ミスか、改番を行ったことの書き忘れか、何れか)、5つの系統でさよなら運転をした際、2両ずつの投入なら10両必要であるが、使用車両は6両となっている等、記事の完成度や信憑性に問題があるからです。佐々木氏の2月号と11月号の記事は、より具体的であり一貫性があり、そして2月号と11月号の佐々木氏の記事を組み合わせても矛盾点がありません。

 改番については、佐々木氏も千歳氏も旧番と新番の具体的な1対1の対応づけの記述が無く、表にでもしていただいていたらよかったものと思います。貴重な文献を残してくださったことには感謝いたしますが、この点がとても残念でなりません。

 花電車(装飾車)については、これとは別に工事牽引車用途の301号があることから、在籍車両を301、305、306、307号のように歯抜けにしたくなかったので、書面上では、301、302、303、304号と揃えたのでしょう。実際の302や303号は昭和45年11月に解体されてしまったわけですから、実車は301、305、306、307号というわけです。

改番の部分に関しては、矛盾の無い佐々木氏の記録を採用し、一部推定も含まれますが整理をすると次のようになります。

車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の廃車
廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車
解体 解体 解体 解体 解体 交通
公園
解体
改番後
46年4月
当時
301 304 305 306 307 302 ? 303 ? 308 ?
用途
変更等
工事
牽引車
ラッセル
化中止
花1 花2 花3 ラッセル
化中止
ラッセル
化中止
ラッセル
化中止
その後 昭和55
〜56年
頃解体
ササラ車へ
部品供給
の為解体
花1

302
花2

303
花3

304
ササラ車へ
部品供給
の為解体
解体 北海道開拓
記念館へ寄贈
ササラ車へ
部品供給
の為解体

312 号がいつ解体されたのかはわかりません。

花電車(装飾車)1〜3号(新302〜304号)の旧番号の305〜307ですが、

A.305⇒花1(新302)、306⇒花2(新303)、307⇒花3(新304) ではなく、例えば

B.306⇒花1(新302)、307⇒花2(新303)、305⇒花3(新304)
C.306⇒花1(新302)、305⇒花2(新303)、307⇒花3(新304)
D.307⇒花1(新302)、305⇒花2(新303)、306⇒花3(新304)
E.307⇒花1(新302)、306⇒花2(新303)、305⇒花3(新304)
F.305⇒花1(新302)、307⇒花2(新303)、306⇒花3(新304)

といった、可能性もあります。しかし、佐々木氏の記述では

 車体番号は1〜3に改められたが、旧番号は302〜304(これは書類上で、実番号は305〜307)である。

とあり、これは昇順に番号が割り当てられたと考えるのが自然であるので
305⇒花1(新302)、306⇒花2(新303)、307⇒花3(新304) であると考えます。

もし、B〜Fの可能性もあるのなら、その旨を鉄道雑誌へ投稿する際に記載しなければならないでしょう。

例えば

車体番号は1〜3に改められたが、旧番号は302〜304(これは書類上で、実番号は305〜307であるが、1対1の車番の対応は不詳)

のように書くべきです。そのような記述が無いことから、Aのような対応であると考えられます。

都電の7000形を譲り受けた後、函館の1000型へ車番変更した際は、旧番との対応は昇順ではありませんでした。それは10両同時に函館に到着したわけではなく、3隻の船で3回に分けて函館に到着しており、埠頭から梁川車庫へトレーラーで搬入された順番も車番の昇順ではなかった為です。300型については、自社内での車番変更なのですから、わざわざB〜Fのような歪な変更をすることも無いでしょう。


それから「旧番号は302〜304」という記載にも問題があります。誤解を招かないためにも,

305〜307号は、車体番号(表示上)は1〜3に改められたが、車籍管理番号は新たに302〜304が割り当てられている。

のような文書にしたほうがよかったと思います。

一番明確な書き方は、

305→装1(車籍管理番号は302)
306→装2(車籍管理番号は303)
307→装3(車籍管理番号は304)

のような書き方です。


次に、

311⇒昭和46年4月さよなら運転当時 302
313⇒昭和46年4月さよなら運転当時 303 ⇒ 北海道開拓記念館へ寄贈時 313
315⇒昭和46年4月当時 308

これらの車番変更ですが、この部分も推定です。305〜307号を花電車へ改造するにあたり、車籍上新302〜新304号へ改番するわけですが、北海道開拓記念館へ寄贈する車両も同じ303号では問題があると考え、元の313号に戻したのではないでしょうか。


では次に、1972年12月号から引用させいただきます。

1972年12月号(No.140)
REPORT 函館市電便り 佐々木 和夫

市電300形1両(307,旧313)が札幌市郊外にある北海道開拓記念館に買い取られ、現在そこで余生を送っているはずである。

これはどういうことでしょうか?

313→改番後303ではなくて、313→改番後307ということでしょうか?.....もう一度、1971年2月号(No.118 )に戻って作成した表を見てみます。

車番 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315
45年
の廃車
廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車 廃車
解体 解体 解体 解体 解体 交通
公園
解体
改番後(案1)? 301 304 305 306 307 302 303 308
改番後(案2)? 301 302 303 304 305 306 307 308

301、304〜307の改番の必要がない「案1」であろうと推定したわけです。しかし、(307,旧313)という記述は、「案1」とは矛盾します。「案2」が正しいということなのでしょうか?301号を除き、7両の車両をわざわざ全部車番をふり直したということでしょうか?306や307は存在するのに、その306や307に別な番号をつけて、311や313に306や307の番号を与えるでしょうか?とてもそのようなめんどうなことをするとは思えません。「304〜307、311、313、315」の7両について車番をふり直す作業と、「311、313、315」の3両だけ車番をふり直す作業とでは、作業量が全然違います。今後末永く使用するなら話は別ですが、1000型が10 両入り、残った300型8両は「46年度以降に工事牽引車・・・1、除雪車・・・4、装飾車・・・3にそれぞれ改造の予定」と計画されていました。300型を客車としては使用しない方針が決まっていたのです。そのような状況で、わざわざ「案2」のような車番変更をするとは考えられません。

「北海道開拓記念館に買い取られ」というのも史実ではありません。「北海道開拓記念館に寄贈された」のです。残念ながら、佐々木氏のこの記事は信憑性が低いと考えます。当HPでは「案1」のような改番が行われたと考えますが、鉄道ファン1972年12月号(No.140)には、この「案1」とは異なる記述もあることは、明記しておきたいと思います。

300型の車番変更については、自社内の変更であることもあり、外部の者には分からない点が多く、推定の部分が含まれるわけです。車番について1対1の新旧対応表が残されておらず、矛盾する記事もあり、推定するにしてもこのように難しい状況です。ただ、佐々木氏や千歳氏の記事が無かったら、車番変更があったことなど全くわからなかったことは確かです。


以上から、300型の生き残りの4両は、

車番 備 考
305 305号として昭和46年4月11日に さよなら運転後、この年の港まつりから花電車・装1号(新302号)として運用を開始
306 306号として昭和46年4月11日に さよなら運転後、この年の港まつりから花電車・装2号(新303号)として運用を開始
307 307号として昭和46年4月11日に さよなら運転後、この年の港まつりから花電車・装3号(新304号)として運用を開始
313 新303号(注)として昭和46年4月11日に さよなら運転後、北海道開拓記念館へ寄贈されることとなり、313号へ車番を戻し、この年の6月29日に札幌へ出発。

(注)鉄道ファン1972年12月号(No.140)の佐々木氏のレポートによれば、さよなら運転時は「307号」であった可能性もある。しかし、307号が実在するのに、その307号には別な番号をふってまでして、313号を307号に改番したとは考えにくい。

とするのが妥当であると考えます。


花電車 装1号(元305号 / 新302号)(平成15年8月)

花電車 装2号(元306号 / 新303号)(平成15年8月)

花電車 装3号(元307号 / 新304号)(平成15年8月)

北海道開拓記念館(札幌市)の313号(非公開)(平成20年11月)

 投石などで、窓ガラスや車体が傷つけられることが続き、非公開になってしまった313号。文化財の維持には、市民のモラルが不可欠です。ここから1kmほど離れた場所には、「北海道開拓の村」があります。そこでは、森林鉄道ディーゼル気動車(昭和31年製)なども車庫付で大切に保存されていました。とてもうらやましく思いました。昭和11年(1936)製の313号は、昭和46年(1971)4月の引退迄約35年間にわたり活躍してきました。多くの人がマイカーを持つことができなかった昔は、大活躍をしていました。函館船渠(株)(現在の函館どっく(株))の当時の技術を結集して作られた、北海道初の半鋼鉄製電車です。当時の路面電車といえば、まだまだ木製の電車が大半を占めていました。北海道の産業技術水準の進展を推し量る上でも、忘れてはならない存在であると思います。

完全な形で残された300型は、この1両だけです。北海道や国から産業遺産として認定していただいても不思議ではない貴重な車両です。都電5501号が、長い非公開の月日を経た後、再び公開になったように、313号が安住の地を得て、いつか再び公開される日が来ることを願っています。

■参考文献
 ・『REPORT 函館市電近況』(佐々木和夫氏) 鉄道ファンNo.118(1971年2月)
 ・『REPORT 函館市電300形単車姿を消す』(千歳 篤氏) 鉄道ファンNo.123(1971年7月)
 ・『REPORT 函館市電その後の300形』(佐々木和夫氏) 鉄道ファンNo.127(1971年11月)
 ・『REPORT 函館市電便り』(佐々木和夫氏) 鉄道ファンNo.140(1972年12月)


補足 昔の鉄道雑誌は、文献的な価値が高く、貴重な資料です。貴重な史実を残してくださったことに、感謝をしなければなりません。ですが、記載されている内容に、史実とは異なる誤りが含まれている場合があり、100%鵜呑みにすると危険である場合もあるのです。


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