昔の車両のご紹介
10型   1〜46 53〜59

【1〜5号】...一次梅鉢車
市電は、1913年(大正2年)6月29日、東雲町−湯の川村間を、5両の木造電動2軸4輪単車(シングルカー)を使って、営業を開始しました。

開業当時の湯の川終点付近を走る記念すべき1号車
     函館市交通局 『走りました80年』より−交通局の許可を得て掲載


開業当時の1号車(大正2年)
函館市交通局 『市電50年のあゆみ』より−交通局の許可を得て掲載

     

【6〜25号】...二次梅鉢車
同年10月31日の弁天町−海岸町間開業の為、さらに追加で20両を就役させました
1号〜25号は、堺市の梅鉢工場で作られました。

梅鉢工場は、別名を梅鉢鉄工所といい、
後に梅鉢製作所へ改称し、帝国車輛工業株式会社を経て、
現在は、東急車輌株式会社大阪製作所になっています。


11号〜16号が客車の姿で戦後も走っていました。15号と16号は1950年(昭和25年)1月21日に廃車、13号と14号は同年12月1日に廃車になりました。
残りの11号と12号ですが、1951年(昭和26年)には修繕や新塗装も施されましたが、ハンドブレーキであることを嫌われ次第に予備車的な扱いになりました。
     小熊米雄氏撮影の12号
     『鉄道ピクトリアルNo32』より

この最後の2両は、1954年(昭和29年)12月22日に廃車となりました。
11号と12号の廃車により、この時点で梅鉢車は無くなりました。
なお、2度の火災(大正15年の新川車庫火災、昭和9年の函館大火)の為、車体番号の整理・改番が行われており、11号〜16号の旧番号は次のとおりでした。
11(旧3号)、12(同じ)、13(同じ)、14(旧7号)、15(同じ)、16(旧9号)
つまり、1934年(昭和9年)の函館大火で、焼失を免れた10型梅鉢車は、この6両だけだったのです。


【26〜30号】...九州車(博多車)
1915年(大正4年)、九州から中古車5両を購入しました。
26号〜30号に関しては、入手元がはっきりわかっておりません。「九州水力電気株式会社の博軌電車」からの購入という説が有力です。
(『鉄道ファン』1963年1月(昭38)通巻19号
−小熊米雄氏『凾館市電の除雪電車 その雪1,2号の来歴について』)


ちなみに30号29号(後の除雪車・雪1号)には、「明治44年4月川崎造船所兵庫鉄道部製作」の銘板が取り付けられていました。26〜30号全てが川崎造船所製だったかどうかは、不明です。
30号29号は函館大火でも焼失を免れた唯一の10型九州車でした。1937年(昭和12年)に除雪車として改造された後も雪1号として元気に活躍してきましたが、惜しくも1997年に廃車となり、九州車も途絶えました。
なお、雪1号が元30号というのは川上氏や小熊氏の調査によるものですが、和久田様の調査によれば、帝国電力が鉄道省へ提出した1937年4月22日付の廃車届(除雪車改造の為の廃車)では、29号になっています。
後日の調査で、昭和9年4月12日の「車輌焼失届」から、函館大火により30号が消失したことが報告されており、29号が無事に残ったことがわかりました。鉄道雑誌では30号が雪1号に改造されたように書かれている場合がありますが、正しくは29号です。

川上幸義氏撮影の雪1号(旧29又は30号)
『鉄道ピクトリアルNo32』より 

【31号〜35号】...一次東京車(東京1型−ヨト型)
1917年(大正6年)8月9日に東京市電気局からヨト型5両を購入し、就役しました。
東京市電側の記録では、大正6年5月5日が売却日で、東京時代の車体番号は、246〜250号です。また、東京市電で、これらは「1型」の型式となっていました。
ヨトの「ヨ」は単車を表し、「ト」は元東京電車所有であったことを表します。
1906年(明治39年)に「東京電車」、「東京市街」、「東京電気」の3つの会社が合併して「東京鉄道」ができました。1911年(明治44年)に、「東京鉄道」を東京市が買収して「東京市電気局」が発足し、東京市電(現在は東京都電)が生まれたのです。電車の元の所有がどの会社であったかを判別する為、このようなカタカナの呼び名が使われました。
ヨト型東京車は、新川車庫(新川橋車庫)の火災後、3〜19号の中に改番されて編入された可能性は残っていますが、そうでなければ、5両共この火災で焼失したと考えられます。
後日の調査で、大正15年4月10日付の「車輌使用廢止届」から31〜35の5両全てが車庫火災で焼失したことがわかりました。

【36号〜40号】...成田車
1918年(大正7年)5月4日、成田電気軌道株式会社から中古電車を5両購入しました。これらの5両は、明治43年に天野工場で作られました。
新川車庫の火災では、36,38,39号の3両が無事だったと考えられます。しかし、函館大火で残ったのは39号だけだったようです。

ただし、川上氏や小熊氏の調査では39号ではなく40号でした。
また、和久田様の調査によれば、帝国電力が鉄道省へ提出した1937年4月22日付の廃車届(除雪車改造の為の廃車)では、37号になっています。
後日の調査で、大正15年4月10日付の「車輌使用廢止届」から37,40号の2両が消失し、昭和9年4月12日付の「車輌焼失届」から36,38号が焼失し39号だけが残った事がわかりました。

(凾館郊外名所)湯の川電車終点(凾館要塞司令部御許可)
白土貞夫様所蔵の絵葉書−許可を得て掲載

「函館要塞」が「津軽要塞」に変わったのは昭和2年ですので、この絵葉書はそれ以前に発行されたものです。写真は、大正末期頃のものと考えられます。成田から函館へやってきた当時の39号、除雪車に改造される以前の姿で、大変貴重な写真です。

焼失を免れた39号は、九州車の3029号と共に1937年(昭和12年)に除雪車に改造され、雪2号になりました。1993年(平成5年)に元の客車に復元され「箱館ハイカラ號」として活躍しています。

【41号〜46号】...三次梅鉢車
1919年(大正8年)12月2日、湯の川線に専用特等連絡客車、6両運行開始。定員32名。
これが41号〜46号のことだと思われますが、この史実の部分に車両番号が書かれておらず、本当に41〜46号であったのか、確認できておりません。
41号〜46号が大正8年に堺市の梅鉢工場からの購入であることは間違いないようです。このとき大型木造電動4軸8輪ボギー車(旧500型)も同時に購入したようですが、単車6両が先に納入され、製作日数のかかるボギー車の納入は遅れた模様です。

特等車は一般車に連結して運行されました。連結運行は、1921年(大正10年)8月5日に大型ボギー車の旧500型が就役するまで続いたようです。かつては、函館市電でも連結運転の時代があったわけですね。
ボギー車就役後は、特等車は普通車に改修されました。

新川車庫の火災後、無事だった4両が109〜112号に改番されたようです。4両の内訳はわかりません41,42,43,46号です。火災後に新車で購入した101〜107号と同じ梅鉢車タイプなので、このように改番したと考えられます。100型として生き残った4両も、函館大火によって、全て焼失してしまいました。

【53〜59号】...二次東京車(東京251型−ヨヘシ型)
1925年(大正14年)、東京市電から7両を購入し53〜59号の番号が付けられました。しかし、1926年(大正15年)1月20日に新川車庫で火災が発生した後、7両全て廃車の扱いとなっています。
正確には、大正14年6月に行った「増加届」に対して、車庫火災後の大正15年4月10日付で書類不備を理由に「取下願」が出されています。書類不備が理由なので、購入したのは事実であったと考えられます。

新川車庫火災後、東京市電から購入した20両には、当初は201〜220の番号が付けられたと考えられます。1928年(昭和3年)以降の車体更新で、梅鉢車タイプの車体に更新され、車番も113〜130,132,133に改められた模様です。実は、これらの車両は、車体更新前は53〜59号と同じタイプの車両(ヨヘシ型)でした。

ちなみに、53〜59号は、東京市電側の記録では、大正13年3月11日付けで売却となっており、東京時代の車体番号は、429、432、437、458、556、584、624号です。東京市電では、これらは「251型」で「ヨヘシ型」と呼ばれていました。「シ」は、元東京市街の所有を表し、「ヘ」は、東京市電で大正9年3月から行われた運転台の改造済み車両を表します。車体整備の便宜をはかり、屋根に登るための「まな板」のようなステップが、屋根部分に取り付けられているのが「ヨヘシ型」の特徴です。



函館大火の際、10型で残った車両は3,12,13,7,15,9,3029,39の8両、100型で残った車両は104,105,118,120,123,128,132,140の8両で、単車の生き残りの合計数は16両という記録があります。104と105号は大正15年到着の梅鉢車、118,120,123,128,132号の5両は、新川車庫火災後に購入した元東京251型です。140号は自社再生車ですので、台車部分は元々は10型車でした。これらの16両は、3029,39号を除き、それぞれ11〜16号、101〜108号に改番されました。


以上のように、大正2年から14年にかけて53両(1〜46、53〜59号)の木造電動4輪単車が就役しました。木造電動4輪単車であることは、全て共通なのですが、導入時期や購入先に違いがある関係で、厳密に言えば53両全てが同じ形をしていたわけではありませんでした。屋根の形が違ったり、胴回りの絞込みがある車体もあれば、屋根のすぐ下から台車のすぐ上のところまで、同じ胴回りの車体もありました。
ただし、当時の路面電車は、今日の路面電車に比べればバラエティーに富んでいるわけでもなく、京都市、東京市等、全国どこでも似たような形だったともいえます。

10型で現存するのは、雪2号から復元された成田車の39号だけです。

函館市交通局発行の「走りました80年」では、1〜46号を全て10型として分類していますので、ここでの分類もこれに従いました。しかし、39号のみ現存している関係で、39号は現在では10型ではなくて30型と呼ばれているようです。また、大正14年に東京市から購入した53〜59号は、新川車庫の火災後に廃車届「取下願」が出ている関係で、「走りました80年」では10型の台数には含めていないようです。

なお、上記の「三次梅鉢車」等は、私が説明上わかりやすいようにと考えた名称で、正式名称ではありません。 前のページへ戻る
(2001年10月27日 / 11月11日・12月22日一部改定)
(2002年1月6日一部修正/1月17日写真追加掲載)
  

1号車の写真の掲載につきましては、函館市交通局より発行の『市電50年あゆみ』及び『走りました80年』より掲載させていただきました。
許可をくださった、函館市交通局長の岩船様、 ご担当の加藤様、 そして函館市交通局の皆様と、便宜を図ってくださった田澤様に御礼申し上げます。 ありがとうございます。(2001年12月22日)

また、39号車の写真の掲載につきましては、白土貞夫様のご好意により、所蔵されている絵葉書を使用させていただきました。 許可をくださった、白土様に御礼申し上げます。 ありがとうございます。
(2002年1月17日)  

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