続函館市史資料集
 昭和46年  第1号 葛西民也氏の貴重な文献

鉄道馬車から市電までのうつりかわり

1 鉄道馬車の回顧
 函館に市街電車が走るようになったのは、大正二年六月からだが、それまでは函館区内(市制施行前)と、区内から亀田村字村内まで(現在の亀田八幡宮、ガス会社付近一帯を村内といっていた)それに、東川町(当時の)から亀田郡湯の川村の温泉場まで鉄道馬車が走っていた。
 この鉄道馬車は、二頭の馬が引き、およそ三十人の乗客をのせ二本のレールの上を走るものだった。区内は二十分おきに、区外は一時間間隔で走っていた。
 函館の鉄道馬車は、明治三十一年秋の開発だが、そのころは東京市もまだ鉄道馬車が走っていた時代で、東京以北の都市に鉄道馬車が走るようになったのは函館が一番最初である。鉄道馬車が電車に代ったのは東京が明治三十六年で、函館は大正二年だから九年おくれているだけてある。もちろん東京以北ではこれまた一番最初で、札幌の電車は大正七年に開業していいるのだから函館よりは五年おくれている。
 当時の鉄道馬車の本社、車庫、厩舎、乗客待合所、等は東川町の中央部にあった。(そのころの東川町は、後年東川、旭、栄、東雲、松風、新川、大森の七か町に分割されたほど、広大な区域であった。)
 その位置は、現在の東雲町労働会館前電車停留所、美鈴商事本社と工場のある所である。ここは十字路になっていて下海岸方面へ行く海岸道路の別れ道で、付近には小森酒造所居酒屋その他の店が建ちならぴ、ちょっとした商店街でもあった。下海岸へ帰る人たちは、連れてきた数頭の道産子馬を居酒屋の側につなぎ一杯のんで帰るのが通例であった。ここからの下海岸行き道路はとても悪く、荷馬車などは到底通れないので、下海岸から運ぶ大量の荷物は和船で函館港に運んでいた。小量の荷物は何頭かの道産子馬に積み分け御者も馬に乗って往復していたという。根崎の松倉川河口には、荷馬車の通る橋がなく個人が架けた幅の狭い木橋があり、人馬がようやく通れるだけ、それに大人一人から渡銭として一銭か二銭を徴収していた。この橋は明治の終りころまであった筈である。銭亀沢村の古川尻にも渡銭をとる橋があったようだが、とにかくそのころの下海岸地方が、いかに交通が不便であったかが想像される。
 鉄道馬車ができた明治三十一年ころの函館区の人口は、七万八千余人だったが、翌明治三十二年に亀田村の千代ケ岱、五稜郭通り、開発、陣屋通り、村内等を分割合併したので区域が広まり、人口も約四千ほど増加して街は活気が溢れていたが、それにしてもそれほど多くもない人口の函館の街に鉄道馬車を敷いたのだから街中の評判は大変なものだった。そのころは戸口から戸口へと人や小荷物を容易に運ぶ人力車が横行しており、これらに対応して馬鉄を経営するのは、並々ならぬ苦心があったことが推察され、経常に参画した先人の勇気と英断に敬服を惜しまない。
 鉄道馬車敷設を計画した人は、当時湯の川で芳明館という温泉旅館を経営していた佐藤祐知氏であるが、区内では有名な協力者が得られないので、ついに東京の有志の力を借りて会社組織を実現させた。当時の重役の中で函館の人として参画したのは佐藤氏と久保熊吉氏の二名だけで、他はみな東京の人々であった。当時としては、鉄道馬車のような利潤のうすい事業などに目を向ける人がすくなかったからであろう。さて鉄道馬車の線路は、本社前から湯の川線と東川線が左右に敷かれ、東川線は東川交番のある十字路で鶴岡線が分披し、本線は東川町通りを南に進み、現在森薬局のあるところで宝町につきあたって行き止まり、丁字路を左と右のニ線に分岐し、左分岐線は巴座を中心として盛り場の新蔵前で、ここから右に折れ宝来町通りに出て宝来交番附近で(現在の宝来交番より一角西にあった)、右折し、遊廓内を通り招魂社通りで、丁字路といっしょになり、恵比寿町、十字街に達し、ここで左折して末広町、大町を通り弁天町に入り、粂呉服店のすこし先の十字路を終点とした。また十字街から右折する線路は、二十間坂下通りに出て、現給食センタ一前で右折し、東浜町、仲浜町、西浜町の海岸通りを進み、西浜町の中間で左折して弁天町終点で合していた。また東川町交番角で分岐した鶴岡顔は、地蔵町、鶴岡町の国道に出て左右の二線に分かれ、左分岐線は十字街で東川線と合し、右分岐線は国道上を亀田村字村内の終点まで延びていた。本社前から東に延びていた湯の川線は、新川を渡り亀田村に入り、千代ケ岱、開発角(現在の五稜郭公園電停)で右折し、開発(現在の松陰町)相野を経て湯の川村に入り湯の川村字寺野の終点(湯倉神社のすこし手前)に延びていた。
 現在の湯川温泉は、そのころはまだ寺野あたりに、林長館、芳明館、洗心館の三軒と、外に浴場兼湯治場、二軒があるだけだった。
 鉄道馬車が開通したころの函館の繁華街といえば、西部方面では、大町、弁天町、大黒町が主で、そろそろ恵比須町、宝来町辺が賑いを見せつつあった。弁天町には劇場もあり、弁天台場が埋められた跡の広場には、春から秋にかけて仮設の小屋ではあるが、常時色々な見せ物興行などがあり、また台町通りには、遊廓があって繁昌していた。戦前まであった鉄砲小路は、漁夫や船員相手の遊び場だった。東の繁華街は、宝来町の一画に遊廓があり、表通りには三階建の豪壮な遊女屋が建ちならび、それに桜や小林亭などの高級料理店もあって芸者の数も多く、いわゆる弦歌さんざめく賑わいを見せていた。遊郭の東側は、巴座という劇場を中心に新蔵前の盛り場があり、ここでは小屋掛けの見せ物が年中開かれていたし、大人ばかりでなく子供の目を楽しませるいろいろな出店があった。新蔵前から西にむかって池田屋という芝居小屋があり、ここでは時々、活動写真を上映していた。現在銀座通りといっている恵比須町の裏通りには、居酒屋や、あいまい屋が軒をならべ、夏になるとという氷水屋が店を開き家族づれの散歩客の足を止めさせていた。「赤のれん」という呉服店のある辺りに、そのころ最新流行の観工場というのがあって、店内に子供相手の玩具店や反物の端切等を並べた店が今のスーパーストア見たいに出ており、区民の足をひいていた。
 東西両繁華街を結ぶ鉄道馬車ができて、しかも二銭か三銭で乗れたのだから当時の人にととっては、まことに重宝な乗物であった。
 ことにこの鉄道馬車は、停留所等はきめられていたもののあまり正確には守られておらず、手を上げで合図すれば、どこでも止ってのせてくれたし、おりたいときなどは、車掌に話すと御者に合図し、すぐ止めておろしてくれるといった具合、つまりどこででも乗れ、どこででもおりれるという都合のよい乗物であった。
 鉄道馬車ができた明治三十一、二年ころの湯の川線の沿線がどのような風だったかは筆車には知る由もないが、明治三十九年ころからのことは筆者が中学生として、千代ケ岱に移転した函館中学校に通学していたのでおぼろげながら知っている。東川町本社前の状態は前述した通りであるが、ここから現在の松風町電停あたりまでは家数もすくなく、今の電停の東側に田村、笹村というニ軒の牛乳屋があり、裏手には牧舎と放牧場があった。二軒の牛乳屋は二十間くらい間をおいて建っていて田村は南側で、笹村は北側にあった。ここからすこし先の東側に成田山の別院があり、そのむかい側に石灰製造所があって、毎日もうもうと白い粉塵をまき散らしていた。すこし行くと道の両側に密生した背の低い松林があった。時々この松の木にぶら下って死ぬ人があるので、学校で遊んで夕方暗くなってから家路を急ぐ中学生たちには、ここを通るのがまことにうす気味悪くみんなかけ足で走りぬけたものだった。
 ここから先は両側ともひょろひょろした短い、い草のような草が生い茂っている砂原つづきで、ここから大森浜の白い波頭がよく見えた。新川の右側には今の厚生院の前身、慈恵院の孤児院があるきりでいまの道警函館方面本部のある場所あたりはかなりの湿地帯であったし、燕麦畑が大縄町通りまで長く続いていた。大縄町通りに出るところに、幅一間ほどの溝川がありそれをとび越えるのがひと苦労だった。
 新川の橋を渡ると左側の土堤沿いに出獄人保護の助成金の建物が一軒ぽつんと建っており、その両側は監獄署の畑であった。この先に二十戸ほどの小部落があり、ここから監獄署への裏通が通っていた。いまもある恵比寿湯という浴場近くの斜路に当時のおもかげがわずかに残っている。千代ケ岱には店屋もあったし、明治四十年ころから、ポーランド国からの亡命者だと称する外国人が部落端れに独身ですみつき、パンやアンパンを造っていて、夕方運動で腹を空かせて帰る中学生等が立ちよっていたが、ここへ立ちよることは学校ではべつだんやかましくいわなかった。この千代ケ岱の東裏はひどい湿地帯で、その中に屠殺場が周囲を板べいで包み建っていた。この湿地帯は高大森の砂山下までつづき、夏になるといちめんにアヤメが咲きみだれ、じつにみごとであった。湿地帯と砂山との境に、東に流れる幅六尺くらいの小川があり、秋は湿地帯の水溜りと、小川に鴨がおりて好猟場であったようだ。白鳥もおりるらしくときたま教室の窓からも見えていた。千代ケ岱のさきは、農家がぼつぼつ建っているだけで、このさきの左側に重砲兵大隊の兵舎と練兵場があったので、鉄道馬車の停留所を営所前といったのである。営所前のすこし手前に函館中学校へ入る道が畑の真ん中にできていた。中学の校舎は時任牧場の南西の隅にあり、周囲は牧草畑で立木などは一本もなかった。それで学校では生徒を動員してポプラの差し木をさせたのだが、明治の終りころには二十尺くらいまで生長した。ポプラが丘という名はここに由来するのだ。営所前停留所のつぎは女学校裏という停留所で、現在の中央病院前電停の附近である。ここから時任牧場の本宅へ行く通路があり(現在もそのまま残っている)遺愛女学校の生徒はみなここで鉄道馬車の乗り降りをしていたから女学校前と名付けたもののようだ。このさきは開発角という停留所で、現在の五稜郭公園前電停のところである。このあたりから湯の川通りの両側は樹木が生い茂り、金持の別荘等も見え農家もかなりあった。
 明治四十年夏、東川町の一角から出火し、折からの東強風にあおられて、火は西へ西へと広がり、宝来町、宝町、恵比須町、末広町、会所町、東浜町、大町、弁天町、台町等をひとなめにしたのを機会に宝来町、台町、の両遊廓は東川町東端(所在の大森町)の砂っ原に移転させられ、その正門から函館駅までの道路も整備されてからは、商店、飲み屋等が続々と出現し、東部の繁華街が形成されるようになり、これに反して西の弁天、大町はしだいにさびれるになったのである。新遊廓の西入口に大きな門柱があり東京吉原にならって大門と称したのて、後年電車停留所の名称も大門前と名付けられた。
 前述したように鉄道馬車の路線は町の要所要所を通るように敷設されたのたが、明治三十七年に函樽鉄道が海岸町から若松町の現函館駅まで延長されることになり、若松橋で馬鉄の線路と平面交叉するために、鉄道馬車の線路はここから万年橋間を撤去させられている。明治四十二年夏には弁天、西浜、仲沢、東浜の各町を通り十字街に達する線路を廃業撤去しているが、これはおそらくこの路線が大町、末広町を通る線路の裏通りを並行して走っていたから、あまり利用者がなかったのが理由であったろう。
 鉄道馬車の御者、車掌と乗客との間は、じつになごやかであった。そのころの路線は小砂利を敷きつめてあり、馬車をひく馬がパカパカ走るのだからはねあがりた小石がレールの上にのつかかったりすることが多かったので、あとから走ってくる馬車の車輪がのしあがり脱線することが再三あったが、そんなときは乗務員が乗客に手助けを求める。たとえば前輪が脱線した場合には乗務員は乗客に対し「前の方の車が脱線しました、どうか御者台に近い方は御者台の方につめ、車掌台に近い人はみな下車して車を持ちあげる手伝をしてください。」と申し入れる。そうすると客はみなその声に応じてそれぞれ乗務員の指示通りに動き、下車した客は車体を持ちあげるのを手伝ってレールに乗せるのだが、こんなとき乗客たちは手伝いするのが当然のことと思っているのか、べつだん文句もいわずに手を貸し、復旧すると「さあ早く走らせろよ、」とまた車に乗り込むといった調子で、いま考えると乗せる方も乗る方も和気あいあい、まことにのんびりしたよき時代であったといえよう。
 ところで鉄道馬車の御者や車掌の服装は当時の中学生の服装とよく似ていた。どちらも黒色の制帽と詰め襟服、外套で、異なるところは帽子にまいてある線と上着と外套の袖に山形に縫い付けてある二条の線が、中学生は黄色、乗務員は白色のちがいだけであった。ところが中学生の黄色の線は、日にちがたつと色があせてきて白くなるのでその区別がつかなくなる。おまけに車掌は黒色の革カバンを肩から吊るしており、中学生も下級生は肩からズック製のカバンをさげているので、区別はいっそうつきにくくなる。郡部から来た乗客は、うす暗い車内では中学生だか車掌だか判別がつかないと見え、時々中学生をつかまえて、切符をくれと銭を差し出すことがあり、中学生はにが虫をかみつぶしたような顔をして返事をせぬ。乗客は不親切な車掌だ、田舎者だと思って馬鹿にしていると怒る、といった光景を見て乗客たちの中からどっと、笑い声があがり、どなりつけた乗客は照れくさそうにして他の乗客たちを見まわしている光景もよく見られた。
 御者の中には、鼻下に立派なカイセル髯をはやしている人もいて、車内ではしゃぐ中学の下級生たちは、いまにも叱かられはしないかとビクビクしてその御者のうしろ姿を見ていたものだった。
 この人は鉄道馬車が、やがて電車に変わってからも引きつづいて残り、大正九年私が函館水電会社に入社したころにはすでに正社員に昇格しており、乗務員監督として元気に勤めて大正十二、三年ころ勇退したが、電車の名物男として長く市民に親しまれていた。
 鉄道馬車というものは区民に親しまれ、じつにユーモラスな乗物であった。

2 鉄道馬車が電車に代る
 大正二年六月、それまで営業をつづけてきた鉄道馬車が電車に代わった。
 まず東雲町の本社前(現在の美鈴商事前)から、湯川間の路線が電車に切り替えられ、つづいでその年の秋には、区内線がいっせいに電化された。
 大正二年ころの函館の人口は、九万人を少し超えていたが、近接町村の人口もそれほど多くはなかった時代に 函館に電車が走るようになったのはまことに興味が深い。
 当時の函館は、日露戦争の終結で南樺太が日本領土となり、また露領カムサッカ半島、オホーツク沿岸へも日露漁業協定ができて出漁が容易になり、千島列島へも函館の漁業家たちは、函舘の資本家の投資により、われ先にと出漁し、北海道沿岸の漁業も、漁法、漁具の改善により漁獲高は増加、それに伴なって加工方法が改良されて商品価値が高まってこれらの漁獲品、製品等は、投資先の函館に集められて、海産物を通して全国に売り捌かれ、函館は海産品の集散地・漁業基地としての地位を確立、これに加えて海産物の有力者は、昆布、塩鱒、スルメ等を、上海経由で支那に輸出して、その販路を拡張しつつあった。また商業界も小型蒸気船を駆使して、道内大平洋沿岸はもとより、三陸地方、奥羽地方の沿岸地域にまで商圏を拡張して進取的に活躍し、財力は充実して区民の生活も豊かで街は活気横溢していた。そのころよく「東京上流社会の新流行品は仙台をとび越えて函館に入ってくる」と京呉服の商人たちが言っていたが、実際にそういう流行品が函館に持ちこまれると、上流社会はもちろんのこと、−般家庭まで競って買い求めた、といわれていた。このように産業経済界が活発化するにつれて、その足となる交通機関もスピードが要求され鉄道馬車や人力車では満足できなくなってきた。ことに当時の函館の経済人は青森、上野間の鉄道が完通したので、上京が簡単になるとともに機会も多くなり、東京で市街電車の便利なことを体験しているものだから、鉄道馬車を電車に変更せよ、との世論がたかまり、鉄道馬車を経営していた函鉛水電会社も、世論に対応して電車化にふみきらざるを得なかりたと思う。
 鉄道馬車を創立した当時と異なって、大正二年ころの水電会社は、株式の大半を区内の有力者が所有し、重役も取締役会長をのぞき、その他はみな区内の有力者が占め、経営上の実権を掌握していたのだから、区民の要望を軽視できなかったであろうし、また会社は大沼第一発電所につづいて第二発電所が竣工して、電力にも余裕を生じてきたので、その消化の一助として、電車経営に乗り出したと思う。

湯川線の複線化とボギー車製作

 交通機関の発達した現代ではおさないこどもたちでも、なんだ電車か、としか見てくれないと思うが、大正二年ころは、まだまだ電車工学が進歩していない時代だったから、その設計着工を担当する技術者を集めるのに、会社首脳部はずいぶん苦労したらしい。
 大沼第一発電所が竣工したのは明治十二年だが、最初の試運転の際東京、京都の両帝大、逓信省(電気事業を管理していた)等から学者や技師たちが大勢つめかけて見学したと聞いているが、わずか二千キロワットの水力発電所でも当時としては国内では有数なものであったそうで、そのころは電気工学も初期時代、電鉄にいたっては大都市以外はごく限られた都市にしかなく、その方面の技術者も簡単には得られなかった。水電会社では八方手をつくして、ようやくその年東京帝国大学電気工学科を卒業したばかりの、新進気鋭の工学士石津竜輔氏を得た。そしてさらに東京高等工業学校出身の技術者二人を採用することができたが、そのうちの一人が作家久米正雄氏の実兄だった。大沼第一発電所の所長をしていたころ、久米正雄が遊びにきて滞在中に、社宅に近い留の湯温泉をテーマにして書いた作品がある。
 この人たちは後年石津氏が退社した際、そろって退社し、その後大正七年夏に早大電気工学科を卒業した勝浦英一君が入社している。 私が水電会社に入社したのは、大正九年二月だが、そのとき勝浦君は一年志願兵として入営中で、正規の電気工学を修めた人は、技師長の村田栄太郎氏一人だった。
 私が入社した大正九年当時は、第一次世界戦争が終了して、函館も好景気がつづき、電力の需要が急増していた。会社ではこれに対応するため、大野川に水力発電所の新設、また既設の亀田火力発電所の発電機増設等を計画中だったから、私は入社早々その設計を担当させられた。
 会社の仕事にもようやく慣れて、いよいよ本格的に設計に手をつけようと段取をしていると、突然技師長から、「湯川線を複線にしてボギー車を走らせることにした。その仕事を先きにやってほしい」という命令をうけた。大学で電気鉄道一般に関することは救わったが、車輌のことまでは教わっていなかったので、寝耳に水でとまどってしまったが、さいわい技師長は元来電鉄畑の技術者だったので、いろいろアドヴァイスをうけ、参考書をもとにし、アメリカの郊外電鉄の車輌を標準にしてボギー車を設計したが、モーターの出力を決定するのには一番苦労させられた。車体の大略の図面は私が書いたが、仕上図はその当時図工をつとめていた白旗君が書いてくれた。製作を請け負った大阪の梅鉢工場の技師たちが、この図面の仕上りを見て激賞していたことを記憶している。この白旗君は戦後交通局で新ボギー車三十輌を購入するときにも、設計製図をしてもらったが、このときも車輌製作の日本車輌株式会社の技師たちから「この図面はどこに依頼して作成したのか」と問われ「局の白旗技師が作った」と答えたが、「これほど優秀な技術をもっている人はわが社にもおらぬ、もうすこし年令が若ければ、ぜひ譲ってもらうのだが、」と残念がっていた。白旗君の製図技術はそれほどすぐれた腕前であった。
ところで、複線工事の準備にかかって見ると、いくつかの困難な問題にぶつかった。第一に、大門、新川間の道路幅がせまくて、複線軌道を敷くことができないことだった。それで市役所に交渉して幅員を拡げてもらうことにしたが、その交渉がなかなか進捗せず、最初の計画の大門側から工事着手の予定を延期して、新川を越した地点からとりあえず着工の破目になった。しかし、この道路幅員拡張も、家屋の立ち退き費用や敷地の買収費用等で簡単にきまらず、ようやくそれらの経費を会社が負担するということで決着がついた。 第二点は、新川の橋梁の幅員がせまいのでこれを拡げる問題だったが、これまた経費一切を会社が負担することで落ちついた。しかし、一番困ったのは五稜郭公園前停留所から湯川方面へ曲る道路の内側の幅員がなく、附近の土地を買い入れて拡げる予定をたてたが、どうしても地主がこの部分を売ってくれず、やむを得ず必要坪数を当時としては非常にたかい貸借料で契約を結び、ボギー車が運行できる曲線を造った。また湯川線を複線化したとはいえ、鮫川橋から終点までは、道路幅がないのでこの部分は単線で工事をせざるを得なかった。
 湯川線の複線化と同時に、市内の方にもボギー車を入れたかったのだが、どのカーブ半径が小さくて通すことができず、カーブ半径を大きくするには膨大な費用がかかるので、やむを得ずこれは取りやめることにした。
(昭和九年の大火後、都市計画実施の際道路幅員が拡大されて、カーブ半径が大きくなったので、市内線全部にボギー車を運転できるようになった。)
 大正十年に造ったボギー車は、現在の五百号型と長さも最大幅もほとんど同じで、窓だけがちがっていた。外観をよくするため、明り窓に三か月型の飾り窓をつけ、車内の三分の一を特等室に仕切り、三分の二を普通室にわけ、内部の備品、シート等もー段上製を使用し、ドアの両ツマに鏡を取付けた。このボギー車が運行するようになってからのことだが、ある日湯川の芸者が特等室に乗り、鏡にむかって化粧最中電車が急停車し、その反動でオデコを鏡にぶつけ、自分はオデコに負傷するし、鏡は木っ葉ミジンにこわれてしせうという事故がおこり、会社は弁償金をとるどころか、逆に治療費を支払わされる、という笑い話も出たが、ふたたびこのような事故があっては、ということから、鏡は全部取りはずしてしまった。 それに、せっかく丹精こめて造った車輌だったが、特等室はあまり利用客がなく、夜間おそくなると、酔客が芸者たちを連れて乗りこんで高声でさわぎ、普通室の乗客に迷惑をかける、などとの評判が出て、とうとう大正十三年に廃止し、全車室を普通席に造り替えた。この木造ボギー車は、主要材をケヤキ、サクラ、チーク材等を使用した実に立派なもので、当時の私鉄車輌としては全国一の評判をとったほどの見事なものだったが、惜しいことに大正十五年の新川車庫火災、昭和九年の大火等で全部焼失してしまった。

 市街地だけを走る電車は、郊外を走る電車とちがい、その収益はいたってひくいのが通例で、函館の電車も御多分に洩れず収益はひくかった。好景気をむかえた大正九年ころでも、その純収益は投資額に対し年五%くらいしかなく、会社の首脳部からは、せめて年八%くらいまで上昇させる方法がないものか、とつねに命令が出されたものだ。幹部職員も末端の従業員もその対策に腐心したが、桜の花見どきには函館公園にイルミネーションを大規模に設備し、園内の池にも大きな飾り物を造ったり、シーズン前から「函館の花見、昼は五稜郭、夜は函館公園の夜桜」等をキャッチフレーズに、ポスターを作成して郡部に配布して宣伝につとめ、花見電車まで繰り出すなど、いろいろ苦心して増収方法を講じたものだった。 函館公園の他の飾り物や花電車は、年ごとに趣向を替えねばならぬので、この仕事を担当する従業員は頭を悩まし、いつも新らしいアイデアと取組んでいたが、これらに要する費用は花見季節の一日分の電車収入をあてることにきめられていたから、その範囲内で仕上げなければならず、はたで見るのも気の毒なくらいだった。
 大正十年と思うが、当時市内で活動写真館(いまの映画館)を経営していた岩見永次郎氏から鮫川(現在の市民会館一帯)に新世界という遊園地を作るから、と会社に応援方を懇請された。この計画には会社の平野専務も大いに乗り気になり、積極的に応援するということで、技術者が動員きれ、岩見氏の計画実施を手伝わされた。やがて遊園地に大きな滝ができたが、これは一切の仕事を会社の技師たちが引受けて造ったもので、高さは一〇メートルほどももあり、これに用いる水は絞川から一〇〇馬力のポンプで引き揚げた。ポンプの引水ロに夏には鱒が上ってきて、ポンプ番がこれを捕えて持って来てくれたことがある。
 また、大正十年に現在の交通局柏野車庫の奥に、競馬場から一万坪ほどの土地を賃借して、三千人の観客を収容ナるスタンドのある野球場を作り、これをオーシャンクラブに使用させることにし、一方ではオーシャンクラブを強力な野球チームに育てるべく、早大出身の名選手久慈次郎君や、三田周一君らを会社に入社させて、オーシャン一クラブを強化させる、とともに、水電会社にも野球チームを作って、他の実業団と交歓試合などをさせたが、会社がこのように積極的にカを注いだのは、もちろんスポーツ振興に一役買ったとともに、電車の増収という一石二鳥をねらったのも事実だった。
 しかし、函館公園の夜桜以外は、予期したとおりの増収は上らず、野球場も四年で廃止し、新世界遊園地も見物客をひきつけるような催し物が底をつき、入場者は次席に減って経営も困難になり、岩見氏が廃業を考えたのを機会に、水電会社が同氏から施設そっくりを借りうけて、直営の遊園地とした。若い社員たちは、どうせ遊園地にするのなら、ここへ温泉をひいて大衆浴場や、千人風呂のような温泉プールを造って、大々的に遊園地造成を計画すべきであると、重役に進言もしたが、この案は重役からも幹部社員たちからも賛意を得ることができず、ついに実現を見ず、わずかに本格的なテニスコート二面と、こどもむけの遊戯場二三か所を新設しただけで、既設の建物を使って、ときどき催し物をし、秋には菊花展をひらいたりして、乗客誘致につとめたが、専門社員もおかずに、片手間のような経営だったから、思うような成果は上らず結局は経費倒れになってしまい、遊園地も閉鎖せざるを得なくなった。
 湯川線を複線にするときにも、若い社員たちから、住宅地造成経営の進言をした者があったが、重役会ではこの案を採用しなかった。しかし後日になってわかったことは、重役の中には、沿線の畑地をひそかに買い入れている人がいて、若い社員たちは、老人連中なかなか味なことをやるものだなあ、とにが笑いをしていたものだ。

3 新川車庫で電車三十両を焼失す
 大正十五年一月二十日、夜十一時ごろ新川車庫で火災が発生した。その時間帯には市内の営業線から終車がつぎつぎに帰ってくるのだが、それらの車輌を入庫させてから間もなく、一台の電車から出火し、火のまわりが意外に早かったのと、宿直員の手不足から、火は見る見るうちに車庫いっぱいにひろがって、電車を戸外に引き出すことができず、あれよあれよといううちに、ボギー車二輌と、単車二十八輌を焼失してしまった。一瞬のうちに保有台数の半数を失ってしまったのだから、会社にとっては大変な出来ごとだった。大事にいたった原因は、漏電ということでおさまったものの、私たち技術者の間では漏電説でおさまったことが不満でならなかった。というのは、乗客の中で酔っぱらいや、郡部から来た客の中には″車内禁煙″ということを知らずにいたり、忘れていたりして、注意をうけるとあわててもみ消し、消えたかどうかをたしかめずに窓枠にこすりつけたり、窓枠の落ちこむ溝穴に捨てる人がある。その窓枠の溝穴には綿くずのような埃りが潜るので、車体手入れのときに取り除かせるのだが、手の動きにくいところだけに、十分取り除くことができないことがある。ところがこの溝穴は座席の下から風が入いると、上にむかって吹き上げるので 火の粉でも入いると吹き上がる風の勢いで燃え上ることがあり、これまでにも数回そんなことがあった。だから入庫の郡度十分点検するのがきまりになっているのだが、夜の十一時すぎは、前にも書いたように入庫車がぞくぞく帰ってくる。入庫後の車は点検後ポールを外しておくのだから、車内の配線から漏電することはあり得ないわけで、これを漏電説でかたづけられたということは、まことに残念だった。
 いまの電車は窓ガラスを下におろさずに、上にあげるようになっているから、火が出るようなことはあり得ないが......。
 さて、火災後会社では直ちに山本源太常務取締役を上京させて、応急策として東京市電から増車の中古ニ十輌を買い人れ、函館に運んで手入れをして、全線に運行させたので、市民にはそう大きな不便をかけずに済んだ。
 火災の責任を取って工作係長(車庫)と火災当夜の宿直責任者であった工手長が辞職したが、その後任が仲々きまらなかった。
 当時の電車運輸部長は、函館に電車ができた当初からの人で、東京市電をやめて函館に来た人だが、そのときつれてきた職工たちが、運輸部長派と称されており、一方では会社で養成した連中で熟練工となっている者が大分おって、これらが団結して技術部派と唱え対立していた。工作係長はこの二派にはさまれて、なかなか面倒な立場におかれていた。そうした事情を重役連もうすうす知っていたと見え、係長の後任をきめるのに因っていたようだ。
 この火災があって間もなく、私はそのころ街中に流行していた猩紅熱にかかり、中の橋の避病院に収容されていたが、すぐとなりが亀田変電所だったから、熱が下ってからは会社の保安電話線を引き入れ、ベッドから工場の作業を指示していたので、人事が難行していることも知っていたし、運輸部の連中が五月一日のメーデーを期して、待遇改善の実現要求のため、ストライキをやる形勢があることなども知っていた。しかもストライキには工作係の連中も同調するらしいとの情報もつかんでいた。技術部の外線係、内線係、それに発電所、変電所の連中までがこれに巻きこまれると、それこそ大変なことになると思い、ベットの中から各係長に電話してストライキにみんなを同調させぬよう、手配してもらうことにした。
 三月の下旬に私はようやく退院することができたが、出社するとすぐ重役室に呼びつけられ、岡本専務、山本常務のほか、伊藤、有田、村田の三部長同席の場で、工作係長兼務を命ぜられた。
 私はそのころ、技術部の工務係と、建設部の電気係の二つの係長を担当し、つねに出張がちなところへ、工作係まで持たされては、と辞退を申し出たが、専務からその点は十分知っての任命なのだといわれ、引きうけざるを得ない破目になってしまった。
 その後 二週間の休暇をもらい、私事で本州旅行に出かけ、大阪から会社に連絡電話をしたところ、電車従業員や、工場の道中が五月一日からストライキに入る形勢だから、至急帰函するようにと指示があり、途中で旅行を取りやめて帰函したが、そのときはもはやどうにもならぬ雲行になっていた。

4 電車のボデーを自製す
 大正十五年一月の火災で焼失した電車の補充として、東京市電の使い古るした単車二十輌を買い入れたことは前にも書いたが、この車は東京市電では、もはや使用しておらぬ廃車一歩手前のものだったから、車庫の片隅みに放置したままで、損傷もひどいのが当然だった。
 車台、機械類はそれでも手入れ次第では今後なお使用できるが、車体そのものは木造だったし、永い間放置されたままだったから、ガタガタにゆるみ、運行中に急停車したときなどは、いまにもつぶれてしまうのでないだろうか、と心配されるほどのしろものだった。
 しかし、急場しのぎにはこれらも戦力のひとつだったから、かたっぱしから諦め直しをして営業線に出動させた。運行中にギシギシ車体がきしむのはどうしても直らなかったから、乗客にはすこぶる評判がわるかった。おまけに東京市電初期の製作だったから、室内の幅もせまくて窮屈だったのて、満員の際の乗降などは能率がわるく、乗務員たちはこの車に乗るのをきらって、出庫の際など乗務員にその車の番号を指示すると、「なあんだ、今日も朝から源太車か、今日はゲンがわるいぞ」と敬遠され勝だった。源太車とは、この電車を東京市電から買入れ交渉をしたのが、山本源太取締役だったから、乗務員がいつの間にかこういう名称をつけたのだった。
 そういうわけで、市民の評判もわるく、乗務員からも敬遠されるので、この際いそいで車体全体を新しくしたい、と考えて、いろいろ研究したところ、製作会社に造らせるのと、これを新川工場で自作するのでは、比較にならぬほど自製が安価で、半額以下で造れるという見通しがついた。
 重役に具申して許可をもらい自製にふみきったが、使用する材質は全部道産品を用いることとして、ナラ、タモ、サクラ等の上質をえらび補強の金具類は焼けた旧車体から使えるものを取り外して再使用して、完成したが一輌当り三千五百円という安い単価で済ませることができた。これに力を得て単車のほかにボギー車二輌も補充することにしたが、一輌は自家製作とし一輌は大阪市の梅鉢製作所に作らせた。この結果自家製の方は 外註の半額以下でできあがり、重役から非常によろこばれた。ちなみに北海道で電車車体を製作したのは函飴水電の新川工場が最初である。
 ところで、電車の車庫に修理工場があるのは当然のことだけれど、函館水電の場合は、電力供給が本業だったから、配電用の変圧器その他の器具を修繕する必要から、電車修埋工場に交流機器の修繕施設を併設してあった。この方の仕事を担当していた今清武君はきわめて優秀な技能の持主だが、その今君からの提案を採用して発電所、変電所等の特別高圧用機器の修繕をすることにし、十万ボルトの試験用変圧器を自製して、その準備をととのえた。たまたせ上磯変電所に備えつけてある二万二千ボルト三百KVAの変圧器が故障し、技師長から、東京の芝浦製作所へ送って修繕するよう指示があったのをさいわいに、勝手に新川車庫工場に運搬して、われわれの手で修繕をしたが、このときは札幌逓信局電気課の係員と村田技術部長に立ち会ってもらって、試験したところ、見事にパスし、技師長から「お前たちはいつこんな施設をしたのだ」と聞かれ実は作業の合間を見て、みんなで造ったのだと返事したところ、技師長は非常によろこばれて、特別高圧用機器類の修繕は、今後一切ここでやろう、ということになった。それからは、いままでのように、東京まで汽車で送って修理させるのとちがい、自家修繕だから費用は三分の一か、四分の一くらいで済み、大変な節約になった。また、港内に入港中の船舶に据え付けである電灯用直流発電機の修繕なども、依頼があれば外註をひきうけたが、先方の希望期日までに修理を終ってひき渡すので、依頼者側からは、滞船費が節約できる、とこれまた非常によろこばれた。もっともこれらは需要家である船舶取扱店へのサービスとして、緊急を要するものに限ってひきうけていた。 このように、特別高圧用の電気機器類を修繕できる工場を持っている電気会社は、道内では函館水電以外になかった筈で、こんな工場を造れたのも電車修理用として、旋盤その他の械械設備があったからできたことだった。

5 電車従業員のストライキで大量の馘首者出る
 大正十五年五月一日のメーデーに、乗務員組合から待遇改善と、乗車時間短縮等の要求が出され、ひきつづき怠業それからストライキと進み、工作係の職工たちもそれに同調するにいたり、労使の交渉は難航を重ねた末、数日を経て双方の歩みよりによって、交渉は妥結解決を見た。
 このときの従業員側から出された条件は、従業員の賃金を、一人当り一日金十一銭昇給させる、ということが主なものだった。部長の中には、今回の昇給その他の妥結条件は、運輸関係だけに適用すべきであると、主張する人がおり、私はこれにはしばらくあいた口がふさがらなかった。しかもこの言葉は、われわれ技術関係の者にとって、まことに開きすてならぬものだった。そこで言下に異議を申し立て、今回のストライキに技術部の連中が加わらなかったのは、係長たちの説得によったもので、もし運輸部と差別待遇されるようなことになると、明日からでもストライキをはじめるかも知れぬ、そうなったら全発電所は発電を停止し、市中は暗黒なるおそれがあるが、私どもにはそれを阻止するカがない、と詰めよる一幕も、交渉妥結の裏にはあったのだった。
 その結果、こんどの解決条件は会社従業員全部に適用する、ということで決着がついたが、会社が呑んだ条件によると技術関係の人たちの例で計算すると、一日十一銭の昇給は、時間外勤務手当、郡部に在勤する者の在勤手当等をふくめ、平均月収は十六%ほど増加することになるという大幅なものだった。
 ストライキが終った後で、首謀者の処分が行なわれたが、それには警察の特高係の強い干渉があり、電車の従業員は二十名近くが馘首された。工作係の責任者だった私は、自分の担当している部下には、別段該当者はいないと思っていたから不問に付しておいたが、特高係の連中が毎日のように工場へ来て、思想的に不穏な奴がいるのだから、その者たちを処分せよと、強硬に迫り、重役も技師長からも、このことについては、何ら指示らしいものがなかったから、私自身はどんなことがあっても部下の処分はしないと腹の中できめ、特高係の申し分を馬耳東風と聞き流していた。
 ある日運輸部長が、「特高の連中は工作係長がどうしてもわれわれの申し入れを聞こうとしない。あいつは早稲田出身だそうだから社会主義思想にかぶれているのでないか、今後はあいつを監視することにする」と言っていたと話をれた。
 そのうちに、私は絶えず監視されるようなことは、おもしろくないと考え直して、平素勤務成績のよくない者三人を整理の対象にしたが、特高係の連中はそれで満足したのか、それからは顔を見せなくなった。
 ストライキのとき、工作係の中で先顔に立った指導をした者の氏名はわかっていたが、三名を整理したので、これで落ちついたと思っていたところ、従業負の中には再度の首切りが近く行なわれるのでないかと、いう不安からか、みんなの態度がどうも落ちつかず、仕事に実がはいらぬ様子が見うけられた。そこで一日もはやく彼らの気持を落ちつかせねば、と考え、六月に入るとすぐそのときのリーダー格の一人を工手長に任命し、それまで欠員中の車庫の片番の責任者にした。
 当然こんどの整理の対象になるとみんなが考えていたり−ダーの一人が、反対に昇格したのだから、他の連中も心から安心したと見え、完全に落ちつきをとかもどし、勤務ぶりも目に見えてよくなり、活気があふれるようになった。
 戦後の昭和二十一年正月に私は交通局長を拝命したが、このときのストライキで警察の留置場にぶちこまれた若い工員たちが、熟練工として大勢残っており、戦後の荒廃した電車、ハスの復旧に、一団となり手足となって働らいてくれたから、意外に早く復旧できたと信じている。

6 単車のモーターを二十五場力に統一し、開放型を密閉式に改造す。
  函館水電の電車は、開業後三十両の新車を買い入れたが、その後は必要の都度内地から中古車を順次買い入れて来た。したがって、車体の型もいろいろ変ったのがあって、モーターも二十五馬力、二十八馬力、三十馬力、三十五馬力、と四種類があり、「函館へ行けば市街電車の種類がひと目でわかる。まるで単車の見本市のようだ、」などとの評判が本州の同業者の間にあった。
 しかし、このようにモーターがちがうと、困らせられるのは、いつも修繕を担当する工場側だった。各車種ごとに部品がちがうし、モーター修繕に使用する予備コイルなども、各馬力用のものをつねに準備しておかなければならぬので、実に繁雑だったし、貯蔵品の費用も馬鹿にならなかった。
 大火後に買い入れた東京市電の中古車は、全部芝浦製の二十五馬力モーターが備えつけらており、焼失した単車の分と合わせると、現有単車全部を二十五馬力モーターに統合できることになるのを機会に、大火で焼けた二十五馬力モーターを修理し、順次に入れ替えてしまった。
 このため使用電力の消費は大分減じ、予備コイルも二十五馬力用だけのストックで済み、工員の作業もかなり減ったので、他の職場に若干名を配置転換することができた。
 つぎに、従来使用して来たモーターは、積雪地向きに設計されておらず、運転中に生ずる過熱を冷却させる目的で、通風型に製作されていた。だから函館の場合は、降雨時には線路内に水溜りができて、それが進行時に発生する風にあおられて水しぶきになって通風口から吸いこまれるし、降雪時には粉雪が吸いこまれてモーターを焼損する原因になることが多かった。そこでこれを密閉式に改造することを考え、芝浦製作所からモーターの仕様事や、その他の参考書を取りよせて、今君を主査に、種々工夫研究した結果、密閉式に改造しても過熱するおそれのないことがわかったので、さっそく密閉式に改造して見たところ、冬季はもちろん真夏でも、焼損は一基も発生せずに済んだ。モーターの故障は激減するし、経費も大幅に節減することができ、重役から非常によろこばれた。
 またこんなこともあった。工場事務室の附近に、電車車輌の歯止めに使用するブレーキ、シューが山積みになっているので、ふしぎに思って調べて見ると、片べりしていて、片側はつくった時と同じ厚味があるのに、他の側はうすく減っている。このシューは工場裏の山口鉄工所の鋳造品で、この購入費は馬鹿にならぬ額であった。理由をたしかめて見ると、シューを保持する鋳鉄製のホルダーの爪が強くてすぐ折れ、その結果シューが片べりすることがわかった。
 そこでボギー、単車の双方に使用できるホルダーを設計させ、九州の可鍛鋳鉄会社に注文することにし、三井物産函館出張所を通じて見積書を取って、いざ発注の段階になると、調度担当者から、こんな高い値段ではとても購入できぬとの横槍が入り、私は部品の合理化上ぜひ必要なことを力説し、ようやく専務の承認を得て発注することがきまった。
 マリエーブル製のホルダーを取付てからは、シューの片ベりが全くなくなり、山口鉄工所への発注が半減し、ここでも大幅な経費の節約ができた。
 木造車輌の外部塗装なども、日本ペイント会社から熟練した技術者の派遣をうけて、作業工程方法を改善し、それらの経費も従来の三分の一くらいに減少することができ、四年後には工場の人員が三分の二に減少し、年間経費の約四十%を節約することができて、会社の首脳部から大いによろこばれたが、こうした裏面には、工作係員たちのなみなみならぬ苦労も努力もあったわけである。

7 函館水電のバス事業開始
函飴の電車は、大正二年から営業を開始してきたが、昭和の初期から、市内にもタクシー業者が現れるようになった。料金は函館駅から湯川温泉までが一円といわれていたが、業者の中には五十銭くらいで客をはこぶ者もいたらしく結構利用者はあったたという。全国的に円タク、という言葉が流行したのもこのころからのようだ。
 旭自動車株式会社が、大門から海岸を通り根崎までの路線に、十二人乗りのバス運行を開始し、ほかにも函館運輸商会というのが市内バスの経営許可を得て、市内を十銭均一で営業開始した。しかしこの会社は電車に対抗できず、営業困難で廃止の憂き目にあったが、昭和三年になると、因印高木蔵治氏が市内のバス事業経営許可をうけて開業するなど電車事業の強敵が現われて、そろそろ電車事業の受難時代が来たのでないかと、会社上層部では心配されていた。しかし昭和五年三月には、水電会社は因バスを買収し、函館乗合自動車合資会社の名で営業を開始し、事務所と発着所を鉄道桟橋附近に設け、車輌の修繕手入は工作係で担当することになった。
 このときから、私は間接的ではあるが、バス事業に関連を持つことになった。因バスを買収したものの、その車輌は何れも損傷がはなはだしく、修繕費がかかりすぎるということから、新車を入れることになり、私は製作ずみの車輌一輌を買い入れる代金に少々足して工作係で自製すると、二輌できる勘定になるから、ボデーは自作し、シャシーだけを買ってくれ、と重役に具申して、さっそくボデーの設計に着手した。
 そのころの工場には、車体製作の特殊技能をもつ大工職が二人おり、電車車体はこの人たちに製作させていたのだが、新しくバスボデーの製作をこの二人に担当させることにした。全く経験のない仕事だったから、設計は私が引きうけて、図面を与へて着手させたが、こんな細い柱では弱くて長持ちしないなどとなかなか仕事にとりかからぬ、それを説得して、ようやく製作にかからせたが、このとき出来たボデーの大きさは三十人乗りくらいであったと思う。
 床の骨組み材や、柱などは道産のナラ材を使い、鉄板を裏うちして補強したのだが、骨組ができたあと大工たちから、こんな細い柱では、とまた苦情がでて困った。私だって計算上では十分強度がある筈なのだが、実際に出来上って見ると、計算上の強さを持続できるかどうか、と内心不安であった。しかし内外の羽目板を張りつけてしまうと、非常に堅牢になって、どんな衝撃にも耐え得るようになったので、はじめて安心した。
 このボデーの内張板はタモの杢目板を用ちい、外部はそのころ市販されたアルミ板に、光沢を消すためサンドグラストをかけて艶消しにしたものを張った。製作費用は一輌三百五十円ほどかかったが、外注の三分の一ほどで済んだ。
 全部で十輌製作したけれど、結局六輌買い入れる予算で十輌揃えることができたわけで会社側からはよろこばれるし、乗客からは今度の銀バスは乗り心地がいいと大好評だった。

8 昭和九年春の大火で車輌大半焼失す
 大正十五年一月の新川車庫火災で焼失した電車車輪の補充がついたころ、会社と函館市の間で電気買収問題がこじれ、いわゆる電気争議がはじまりかけ、会社では今後当分の間車輌の増強を見送ることになり、工場では既存の車輌の保守に専念することになった。
 昭和九年三月二十一日、函館市はじまって以来の大火災が発生し、電車も十六輌を残しただけで、その他は全部焼失してしまい、電車事業の受難期をむかることになった。そのころ私は電気争議に不手ぎわがあったとして、支配人兼技術部長の職を解かれ、休職扱いとなり、会社へ出勤することもなくなった。そして二月末からフィリピン方面に視察旅行に出ていたから、函館大火のことはマニラで知ったものの、罹災状況は皆目わからず、帰国後函館の焼土に立ってはじめて被害の大きいことをわが目で見て、ただただ茫然とするのみだった。
 私は電気事業から身をひいたので、昭和二十一年一月交通局長を拝命するまでの十余年間は、特に書き残すことがない。

9 函館の郊外電車計画について
函館は大正のはじめから電車が走っていたのに、なぜ郊外電車が出現しななかったのか、もし郊外の町村と連絡する電車が走っていたら、函館はもっと早くから発展していたのではなかったろうか、と残念がる人たちもいると思うが、函館水電は郊外に進出する気持は終始なかったようだ。しかし、大正年代の終りころから郊外電鉄を計画した人たちは二三あった。
 その一つは、函館と大野村との間に電鉄を敷設しようという計画を立て、建設特許をとった人がいる。大野村の素封家で、郵便局を経営していた中村長八郎氏がその人である。
 しかし、電鉄建設には莫大な資金が必要だが、大野村の人たちだけでは到底捻出来るばずがなく、函館水電の村田栄太郎技師長に助力を求めてきた。村田氏は札幌市の友人丸山誠音氏が、常々どこか電鉄を建設する地域がないものか、と話していたのを思い出し、同氏の来函を求め、中村氏たちに会見させたところ、中村氏たちは無条件で丸山氏に一任することに話がまとまり、丸山氏は亀田村の大地主の守田岩雄氏や、近江孫三郎氏、その他函館の商業会譲所議員の米穀商水野一策氏、それに船矢造船所の主人等と、大函急行電鉄株式会社を創設し、亀田のガス会社前から五稜郭駅前守田氏の所有地を通り、大野新道に出て大野村役場前にいたる工事に着手した。
 しかし、工事中途で資金に行きづまり、工事は中止のやむなきにいたった。その後鶴岡町で雑貨問屋を経営していた百瀬彦一氏らが再建に乗り出したが、これまた資金操りがつづかず、やがて手をひいてしまった。こんなことで万年橋、五段郭引込線間の国道中央部が、掘りおこされたまま数年の間放置され、交通の障害となるという醜態をさらけ出していた。
 その二は、大正十五年春、万年橋から函館上磯間の地方道に、上磯駅前までの軌道敷設申請が出されている。この申請の代表者は、土建業を経営していた渋谷源吉氏だが、発起人の顔ぶれを見ると、この沿線に土地を所有している相馬、橋谷、長谷川、斎藤、逸見の諸氏があり、当時この申請書を受理した道庁の担当係官は、いままで数多くの申請書を手がけたが、今回のような財界の実力者が顔をそろえているのは、はじめてだと、おどろいていたという。
 この申請を聞き知った水電会社は政策上急遽同じような出願をしたので、はからずも競願となり、両者は陰ではげしい運動を展開したがついに渋谷氏らの出額は不許可となり水電会社に対し、七重浜駅入口までの区間が特許となった。
 しかし、会社側にいくつかの特殊な事情が生じて、工事着手は延期され、その後も再三着工期限の延期を申請してきたが、着工できずについにこれ以上延期申請をするのがむずかしくなって、昭和八年春には無軌道電車に計画変更の申請を提出したものの、結局工事着手は困難となり、昭和十二年にはついにこの申請をも取り下げてしまった。いまにして思うとあの当時渋谷氏側に特許されていたら、資金には事欠かぬ地元財界の有力者が後ろに控えていたのだから、函館上磯間の国道沿いに郊外電車が実現したのではないか、と残念に思う次第である。このほかにも電鉄建設の申請はあった。大正十五年八月に木材商浜岡重蔵氏を代表に、大門から大森海岸沿いの地方費道に、根崎、松倉川口までの特許申請が出されている。しかし、これは渋谷氏たちの申請が却下されるとき、同時に不許可になっている。この二つの申請をめぐって、陰で函館水電が中央の政治家を動かして、当局に強く働らきかけて不許可にさせたというにおいが濃い。これを裏付るかのように函館水電では、昭和三年春万年橋から五綾部駅前までの軌道延長を申請すると同時に、大門、根崎間の海岸通路に軌道開設の申請をしているのである。
 昭和六年一月二十一日付の函館新聞を見ると、大函鉄道株式会社の設立代表から、大沼と万年橋間の軌道開設申請が出されていたが、却下になったことを報せた記事が出ている。しかしこの会社の設立代表者が、誰であるかはわからないし、この会社が大函急行電鉄株式会社とは、全く関係がない、ということが附記されている。

10 電車買収実現交通局発足
 昭和年代も十二年ころから世界情勢が悪化の一途をたどり、満州事変、日支事変、それから大東亜戦争と、情勢が激変し、これにともなって各種事業の統廃合が強制され、電気事業もその例にもれず、道内の各電気会社は統合されて、新たに北海道配電株式会社が発足した。
 函館水電会社は、大火のあった昭和九年七月に、社名を帝国電力株式会社と改め、長く市民に親しまれてきた函館水電の名は消えてしまった。同系列の北海道電灯株式会社も、それ以前に社名を大日本電力株式会社と改称していたが、昭和十五年には、帝国電力株式会社を吸収合併し、大日本電力株式会社の動力電灯部門は、北海道配電会社に統合され、函館の電車事業だけが切り離されて、大日本電力株式会社として残り営業を続けていたが、やがて同系列の道南電気軌道珠式会社に事業を譲り渡して、大日本電力は十八年一月から会社解散手続に入った。
 函館市は、昭和十六年秋から大日本電力会社に対し、交通事業の譲方渡の交渉を開始したが、交渉は容易に妥結しをかった。
 翌十七年秋に市会議員全員の改選があり、私も立候補して、さいわいに当選することができ、それからは電車事業買収協議会でその経過報告をきいたり、今後の交渉方針の協議にも加わるようになった。当選後初めて開かれた市会で、電車事業買収委員会の委員選衡が行われ、老練の議員たちが選ばれたが、そのとき議長指令で委員になった人の中に、大日本電力株式会社の傍系会社の旭自動車株式会社社長が入っていることに私は疑問を持ち、山崎議長にひそかにそのことをたずねたところ「あの人は前の市会から委員になっているし、それに本人から、ぜひ再び委員に加えるよう申し入れがあったので加えたのだ。」という返事だった。旭自動車は名前こそ独立した会社だが、その株式は全部大日電が買い占めており、経営の実権は、大日電が握っていたから、私には買収される側の人が、買収する側の委員になっているということが、全くふにおちなかったわけだ。
 一方私は買収交渉が、市長の経過報告をきくたびに、いっこうに進展を見ていないという印象を強くうけ、穴水社長がまた一流の駆け引きをして、それに市側が引っかきまわされているのではないかと思はざるを得なかった。従来から穴水社長のヤり方を熟知している山崎議長が参画しているのだから、私はよもやその術中にはまりこむようなことはあるまいと考えてはいたが、しかし、交渉委員の中に穴水社長と同じ穴のむじなのような人もいることで、市や委員会の打ち合せの内容が、つつぬけに穴水氏の耳に入っており、市側の足許を見ぬかれているのだとしか私には考えられなかった。それでも双方の熱意が逐次みのって、難航をつづけながらも、交渉は翌十八年秋にようやく妥結し、十一月一日から長い間の懸案であった市営交通事業が正式に発足を見るにいたった。
 買収交渉がまとまるまで、一か年の時日がかかったのは、私としては、市側が会社側のかけ引にふりまわされていたからだと考えていたが、実際はつぎのような事情があって長びいたことを後日知ることができた。
 それは、昭和十七年夏ごろから統制令にもとづいて、全国の地方鉄道、軌道事業も電気事業と同様地域的に統合されることになり、大日本電力が経営する函館の市内電車も、渡島海岸鉄道、大沼電鉄等と統合しで一社を創立するように監督官庁から慫慂され、その統合に加わるという念書を、一札政府に取られているのを秘して交渉にあたっていたから、大日本電力側では積極的に交渉を進め得なかったということを、後日大日電の幹部であった人からきかされ、その間の事情がわかったような次第だ。

11 大降雪で電車バス共に運転不能となる
 市営交通事業は、昭和十八年十一月一日に発足したが、戦争はますます熾烈となり、いっさい物資は統制下におかれ、配給制によっで配分されるようになった。国民のすべてが窮乏に耐えることを強いられたが、電車・バス事業にとっても、それらのことは御多分にもれず窮屈になってきた。
 ことに、電車やバスの補修に必要な資材は戦力の維持増強に欠くことのできないものが多かった。戦時下にあって、産業戦士輸送の花形などといわれた市内電車やバスも、軍部にいわせると、あまり戦力増強とは関係がないと考えられていたからか、補修資材の割当配給はいたって僅少なものだった。
 戦争遂行のためにはいたしかたのないことだりたかも知れないが、車両や工作物は十分な修理ができなくなっていたから、電車、バス共急速に劣化し、低下の一途をたどりつつ、二十年八月の終戦をむかえた。資材の配給はこの日から完全に途絶えてしまい、手持の資材をやりくり算段して何んとか苦境をきれぬけるべく、苦心惨胆、取り外した使い古るしのものをさらに修理して使用し、かろうじで最小限の運行を維持して来た。
 ところが、この年は十二月中旬から近年珍らしいほどのドカ雪が降りつづき、ついに電車バス共全線運行停止という最悪の事態におちいってしまった。
 この大雪は十七日から降りはじめ、見る見るうちに電車線路を埋めてしまい、除雪車をフル出動させたが、故障続出してその用が果せなくなりてしまい、局では除雪人夫を集めるために狂奔したが、人は思うように集らず、苦心の甲斐なく、線路上の雪は歩行者やトラック等でカンカンに踏み固められてしまった。このため運行中の電車は進むに進まれず、退くにも退けず、完全に路上に立往生してしまった。  
 十二月二十二日付の道新に「この大雪ではもう手を尽すすベもなくなった。おそらくこれが根雪になるだろう。こどもたちは、わずかの坂をつくって、ツルツル辷って遊んでいる。こうした大雪と、こどもたちの楽しい遊びを結びつけることができたのは、本当に何年ぶりかのことだろう」と云いたほど近年まれに見る大雪だった。何しろ満身創痍の車を無理を承知で走らせていたのだから、たまったものではなく、大雪で埋めつくされた線路を走りぬけることができたとしたら、それはまさに神わざであったろう。
 こうした中で交通局は女子をのぞき局員総出勤で、除雪作業に従事し、二十三日ころには、辛ろうじて交通局前と函館駅前間の除雪を完了し運転をはじめた。しかし、何にせよ材料が欠乏している際中のこととて車輌の修理が完全に済んでいるようなものはなく、応急修理をしたに過ぎない車だから、故障が続出し、実際に運転できるのはごく少数であった。
 十二月二十六日の道新は「市電も連日の故障続出で、全くの半身付随、この打開策として交通局では、修理工場員の欠勤、資材不足等に悲鳴をあげ、函館ドックに依頼して、十数名の工員を派遣してもらい、馬力をかけているが、手持資材が無いのでさっぱり能率があがっていない。このままの状態がつづけば、またまた全線運行休止せざるを得なくなるだろう」と報じている。
 交通局では、そんな悪条件のなかで、けんめいの努力をつづけて、故障車のうちから使用可能の部品を取り外して、稼動できそうな車に取付けて、やりくり算段、乗客輸送につとめたが、なにしろ動ける車両が僅少だから市民からは、交通局一体をにをしているのかという不満の声が日ごとに多くなり、十二月二十九日の道新は、「二十一日から、二十台の稼動車確保を目標に、総力をあげてがんばったが、即日二台が故障して十八台に減り、翌日からはつぎつぎと故障車続出、二十六日までに十三両、昨日は濡れ雪にたたられてほとんど運転不能となった。電車は除雪車をふくめ全部で七十両あるのだが、そのうちの三十五両は全く使いものにならず、残りの三十五両も故障続出の状態で、こんなことでは十八万市民の足としての御用はつとまるはずはなく、ただただ修理材料の入手のみが頼みの綱であるという。こんな市電には、さすが気のながい市民も、すっかり業をにやし、電車頼むにたらずと空きっ腹をかかえて歩るけ歩るけを実施している」と書いている。
 いかに優秀な技能の持主でも、修繕材料がなくては手のほどこしようもない。これが会社経営であったら、どんな手段をつくしても闇資材を買入れて修理もできようが、市営ともなれば簡単にそういうこともできなかったろう。しかも市営になってまだ日も浅く、交通局幹部も市会議員や市民への思惑もあって、腹の中には闇資材でも入手できたら、という気持があっても、思いきってそこまでふみきることができなかったのだろう。
 この年の大雪は函館の市電ばかりでなく、札幌市電をも全滅の状態に陥し入れた。札幌市の交通事業三十年史には、「ニ十一年初めにおける運行は、二十年の末からの悪質多量の降雪のため、各線不通開通を見ず、加えてこの年は近来まれな積雪で、軌道は埋没し、人夫、局従業員、その他沿線の市民中等学佼生徒たちの協力と、排雪車七両の運転を行なっても除雪できず、長期間にわたり運転不能の個所があったことは遺憾であった。二十一年度中の電車運行は一日平均二十六両であった」と述べているし、バスも十二月中旬から二十一年四月二十八日まで、遅行が全部停止となり、年間を通して一日三合強が運転されたに過ぎない、とも書いているが、函館だけが全滅状態に陥入ったのではなかったわけである。
 昭和二十年の暮は、戦争が終結したものの、食料は配給制度、これがまた欠配つづきで、国民の大半は栄養失調状態になり、一切の資材は欠乏していた。タクシーのガソリン配給がなくなり、市民は木炭を燃料として走っているバス、と市内電車が代表的な交通機関であったから、それが全面的に運行ストップとなったことは迷惑至極で、その原因が不可抗力に近いものであったとしても、非難の声が市長にむけられたのは当然の成り行きであった。
 市会側も再々協議会をひらいて、市長や交通局長にその対策をたずねるのだが、何ら得るところがなく、いたずらに傍観するより外はなかった。
 日ごとにたかまる市民からの非難の声に責任をとって交通局長が一月上旬辞表を提出した。市長から適任者があったら推せんしてくれ、と頼まれた私は、配給米の供出督励のため、岩見沢近郊の北村へ同僚議員の奥平君と、市の常盤係長を伴ない出張の帰途、札幌に立ち寄り、旧函館水電時代電車の方の仕事の経験のある北海道配電の課長連をたずね、交渉をしたが引きうけてはもらえなかった。
 一月十六日の市会は、食料対策が主な議題であったが、誰からか交通局長後任問題の質問があり、市長は即座に葛西議員にこの難局を引きうけてもらうつもりだ、との答弁が出て、同僚議員たちもこれに同調して賛意を表してくれたので、私も引きうける決心がついた。そしてその日に議員を辞職し、交通局長の辞令をもらった。

12 交通局長時代の思い出
 翌日から交通局に出勤し、何よりも修繕用資材がどのくらいあるか調べることが先決であると考え、即日工場に行き調べて見ると使えると思われる材料はほとんどなかった。
 これでは、いかに腕のいい工員たちでも手の施しようがない。しかし、顔をみせた工員の大半は以前私と一緒に働いていた連中であったので、資材さえ揃えれば安心して使える車を造りてくれると直感した。そこで一同に対しい、いま急に資材を揃えることはできない相談だから、他の車から使える部分を取り外ずしてもいい、一両でもいいから安心して運転できる車両をまとめあげてくれと頼み、一同もその気で作業を進めると誓ってくれた。なによりカ強かったことは、かって私が工作係長をしていたときの、次席清水常次郎君が現在工場長をつとめていてくれたことだった。私は清水君に任せればかならず私の意志通りに進めてくれると確信した。局に帰ってから資材入手ことで打ち合せたが、調度を担当する係員に倉持君がいて、闇値で買うのであれば品質の善悪は別として、すこしくらいは市内でも入手できると思う、という意見を述べたので、その方法で買い入れる決心を固めた。このことは、倉持君が以前坂本さんが市長であった際の自動車の運転手をつとめていた人で、交通局が発足したときに局の調度係にまわり、市内のいわゆる闇屋の動静に精通しており、その人たちから買い入れても局に迷惑をかけることなどはしないと思ったからだった。
 さて、局の乗務員控室にまわって見ると、運転台数がへっているからもあって、控室に入りきれないほどの運転手、車掌がストーブを囲んで、ただ雑談をしていた。みんなを集めて局長就任のあいさつをしたが、年配の連中は私の工作係長時代の顔なじみで、中にはまた一緒に仕事をすることになりましたね、などとかたわらへ寄ってくる連中もいた。そこで現在交通局が立たされている苦境打開について率直に話し、車輌の修理には十分手を打っているから、追々運転に出せる台数も増えるはずだ。その前に軌道の除雪をしておかねば要らない、この際運転に出ない人たちも除雪に出動してくれ、と頼んだところ、全員がこころよく承諾してくれて、翌日からわざわざ作発服を着込んでくるものもあり、みんな大張りきりで作業を始めてくれるようになった。食料不足の折柄に加え、やりつけない重労働だりたのだが、誰一人不平もこぼさず、元気よく働いてくれたので、作業は はかどり出した。除雪が進むにつれて、今度は線路両側にうず高く積みあげた雪を、他所に捨てなければならぬ問題が生じた。それは除雪した雪を運搬してくれる馬車が不足だったことだった。苦心したすえ、海岸町の柏葉運送店が石炭運搬用の荷馬車を抱えていることを思い出し、さっそく出かけて出動を懇請したところ、ちかごろは石炭運搬の仕事がすくなく馬車屋連中も収入がへり困っていたところだから、明日からさっそく出動させる、と引き受けてくれ、翌日から見る見るうちに道路の両側にうず高くつんでいた雪を除いてくれた。市営以前は、除雪人夫も荷馬車でも、毎年同じ親方(ボス)を通じて集めてもらっていたので、いざという時には、その親方に通知さえすればかならず必要数を揃えてくれたのだが、市営になってからは、そういう経験を待った人がいなくなり、それに親方などを通して調達するようなことは、弊害が伴なうとして避けてきたため、世話役もおらず、除雪人夫や運搬馬車を思うように集められなかったのでないかと思われる。
 このようにして、一月二十日ごろには湯川終点までが開通し、つづいて十字街まで除雪がかたずいたのだが、使える車がなかなか予定通りでき上らないのには閉口した。修繕材料は、市内で手にはいるものは闇値でもどしどし買い入れたが、大半は戦時中に作られたいわゆる代用品か多く、安心して使えるものは非常にすくなかった。
 たとえば、モーターのコイルなども、電車で一番故障するのがモ−ターで、そのコイルを作る電線は全然配給がないため、焼損したコイルを巻き直して再製し、これに必要な綿テープは、どうしても買えないので仕方なく晒木綿を闇で買い、細長く切って巻きそれを絶縁ワニスに浸たして作りあげるのだが、闇で買ったワニスの絶縁力が弱いのには全く閉口させられた。
 そのうち晒し木綿も手に入らなくなり困っていたところ、いいあんばいに汐止町に洋品店を出している友人が、シャツ等を作る白キャラコを数巻こっそり持っていたのをみつけて、これを二巻買い入れたが、晒木綿よりは使いやすいということで工員は非常によろこんでくれた。
 そうした中で特に困ったのは、大きな電流が通るサーキットブレカーと、コントローラーの接触部になくてはならない燐青銅板がどうしても市内で入手できなかったことだった。仕方なく普通の銅板で代用させてみたものの、電流が通る際接触点に熱を持つことが多く、銅板はナマツて弾力を失い腰が弱くなってしまい、接触力が減じ、電流の通りが悪く、最後にはごう音とともに火花を出して、乗客をびっくりさせるというようなことが再々起きた。車掌台に立っていた老婦人が、これに驚いて自分でドアを開け、除行中の車からとび降り、倒れて頭を強くうち気を失なったまま、病院に担ぎこまれるという騒ぎが二度まで続き、市民からずいぶん非難をうけた。
 二月に入ってから、業者も局の苦心を知って、極力質のいい材料を集めて、こっそり持って来てくれるようになり、修繕の方も順調にはかどり出した。それに天候もおちつき、全線の除雪が終ったので、できるだけ多くの車を出すようにつとめた。
 二月三日付の道新で「市民の足も、もうボツボツ順調になってもらいたい、しかし新局長を迎えた交通局は相変らず市民の期待を裏切っている」と攻撃されたが、二月も十日ころにはどうやら可動できる車が三十台くらいになっていた。しかし、代用の材料を使っての修繕なので、すこし深い降雪でもあれば、たちまち故障を起す心配があるので、悪天候の日には出庫を制限させ、できるだけ可動車だけにとどめていたのだから、新聞にそのように書かれるのも当然であった。資材の方は、一月にも二月にも、正当の配給は一回もなく、修繕に用いる材料はすべて闇で買ったものだった。三月に入ってから、四十台ほど可動車ができた。しかし一度にそれらを出動させたら、たちまち故障が続出する、そうかといって減車することは面目にもかかわることなので、道路が乾ききるまではすこしくらい非難されても、全部の車輌を路線に出すことはひかえ、甘んじて非難をうけていたようなわけだった。このため乗客に直接接触する乗務員たちは、非難の矢面にたたされて毎日を心苦しく送っているのだと思って私は乗務員に感謝の気持でいっぱいですごした。
 三月二十一日は函館の大火記念日であった。思いきってこの日はじめて可動車を全部営業線に出して見たところ意外に故障車がでず、これでようやくすこし安心することができた。しかし営業に出す車が多くなれば、それに比例して故障車が多くなるのも当然であったし、それに対応するためには、修理資材をより多く集めなければならないのも当然のことだった。市内からチビチビ買い入れるのでは全然余裕など出そうにもないので、なんとかして多量に買い求めたかったが、戦後の市場の変遷などでそんなことが判明しない。 そこで思いきって産業経済新聞の本紙第一面の下二段を使って資材購入の広告を出した。ところが数日を経ずして申し込みがくるわくるわ、およそ百八十通が届き、これでどうやら資材購入先のめどがつき、さっそく倉持君に局員ニ人をつけて、現金を大きなリックサックにいっぱい持たせて大阪へ派遣したが、それからは毎日のように資材が客車便で送られてきた。なお、倉持君からの報告によると、どこの工場へ行っても買い出し人が詰めかけて、できあがる片っぼしから現金引き替えで買取ってゆく。ぐずぐずしていれば横取りされる心配があるので、自分たちも工場につきっきりで出来あがるのを待ち、受け取り次第客車便で発送するのだということだった。このような苦労を重ねてようやく必要材料を集めることができ、修理の方も順調に進むようになった。思い出したように正規の配給がときどきあるにはあったが、その量は雀の涙ほどだったから、大半は闇で買い入れるより方法がなかったわけだ。
 函館に米軍が進駐してからのことだったが、夜間運転途中で車内照明用の電球が切れてしまい、真っ暗な電車を走らせるといったことが再々あったが、翌日になって五島軒の駐留本部から呼び出しがあり文句を言われる。その時分の電球は品質が粗悪なためシンが切れやすく消耗量が実に多かった。そこへもってきて容易に購入ができなかったからその補給には非常に苦しんだ。二十年十二月十五日付道所に「配電会社でも電球入手の見通し困難であるといっている」と書いているが、国策会社である配電会社でさえ、市民に頒布する電球の不足に悩んでいたのだから、交通局が困るのも当然であった。
それでも市中の電気店をしらみつぶしに当って何とか補給してきたのだが、二十一年秋には、もはや在庫品を持っている店がなくなり、苦肉の策を思いつき、五島軒の進駐軍に行き相談したところ、こころよくわかってくれて、運搬証明と鉄道優先乗車の証明書を書いてくれた。さっそく、その証明書を持たせて気のきいた乗務員五名を上京させ、とにかくみんなが背負えるだけいっぱい買い入れさせ帰途につき、上野駅では進駐軍の証明で無事優先乗車させてもらった。汽車が一ノ関駅まで来たとたん、この列車は米軍の命令でここで打ちきる 二時間後に青森行きをここから始発で出すから駅の待合室で待つようにいわれ、その大きな荷物を各自めいめい背負って改札口を出たところ、警官にとがめられ、駅前交番で闇物資の持ち運びということで、訊問をうけたが、いいあんばいに米軍のMPが居合せていて、証明書を見せると、すぐ警察に訳を話してくれて疑いがはれ、その警官の案内でつぎの汽車に最優先で乗車させてもらい、無事帰函するといったひとこせまもあった。
 その後も資材の正規配給はすこしも改善されず、二十一年の秋ごろになると、まったく配給のなくなった品もあって闇買いはどうしても止めることができなかった。しかし闇買いであろうと何んであうと材料がすこしでも豊富に入るようになると、こんどはそれまで品質がすこし悪いくらいのことはがせんしてくれていた工員たちから品質のいいものを買いいれてほしいと強い要望が出て来た。工員たちにしてみれば、品質のよいものを使って、より完全な修理をしたくなるのは当然のことなので、その気持をくんで四方八方に手を尽し、値段がすこし高くても品質を吟味して買わせることにした。ところがどうしたことか、今度は修理の方が予定通り進捗しない。一方では修理が完了し営業車として出動可能の車が何台か出来ても車庫にねむっている、という妙なことが出て来た。そこで理由を調べてみると工場員にも乗務員にも目立って欠勤するものが多くなっていることがわかった。しかもその欠勤理由は疲労がはなはだしいとか、食料の買い出しにいかねばならないというものが大半だった。二十一年秋は食料事情が前年よりさらに悪化し、米は欠配がつづき、わずかな手持の米に野菜や海藻を混ぜて食べているもの、なかには、亀田の農家からでん粉のしぼり粕を手に入れて、混ぜているものもあるというありさまで栄養失調からの疲労が多かった。

13 交通事業改革案を作成する
 昭和二十一年の終りころから、電車もバスもどうやらスムーズに全車輌が動くようになり、修繕材料も、次第に良質のものが手に入るようになって、ストックもある程度できたから、どんな大雪でも前年のような事態を惹き起さずに済む、との見通しがついた。営業成績も毎日向上して来たのを機会に、今後交通事業を如何にすすめるか、この問題に取組むことにした。
新任の渡辺工務課長を主査として、

(1)路面電車を全廃し、バス一本にしぼる場合
(2)レールを全部撤去し、既設の複線式架線を利用する無軌道に変
更する場合
(3)電車を存続する場合の改善方法

の三つの項目について調査をはじめた。この結果、(1)の場合、バス一台の収容力がすくないので、ボギー車一輌にバス二台が必要となり、運転手は特殊技術を必要とするので、人件費が多くかかる。函館市のように路面舗装の完備していないところは、車輌の耐用年数が激減するので、減価償却に年度当りで多額を要する。利点もあるが欠点の方が多い、という判断が出た。
(2)については、その車体は電車の単車くらいの大きさにしかできず、電動機の出力が小さくて積雪地には不向き、という理由で出た。
(1)(2)については不採用ときめ、(3)にしぼって今後の改善を研究したが、この調査をはじめたころの全市の人口は戦時中の十八万から二十万人に増加していた。しかし、今後の増加見込みは、ヒンターランドの狭少なこと、産業的見地等から検討をして見ても、三、四十年後でも三十万を超えることはあるまい。近接町村にしてもその人ロは十万人がせいぜいだから、これを合せても四十万どまり、という見過しがついた。
 また今後は住宅関係は東部方面に集中し、西部は人口減を来たすであろう。そうした変化につれて、繁華街は東部地区にも出現する可能性が強い、その場合五稜郭公園電停が中心となるのでないかと見当をつけた。そうなると輸送力を増強する必要があり亀田終点と五稜邦公園電停間を結ぶ軌道開設が緊急となる。またこの路線を開設することによって、市内の電車は環状線となるので、万一電車の沿線に火災が発生しても、電車の全面的な運行不能は免がれる。さらにこの路線の中央部に局庁舎と車庫を建設することによって、電車の円滑な運転ができる等々の効率的な調査結果が出た。
 つぎに、五稜郭駅前と亀田終点間も、隣接亀田町の人口増加にともない交通量の激増が予想されることから、これまた延長の必要が生じてきているので、実施計画をたてることにした。
 さらに電車事業の改善策とともに、バス事業の方も検討を加え、亀尾、日吉、花園方面、五稜郭公園裏手等に、新路線の計画をたてることにし、車体はみな寿命がきているので、ガソリン配給の見通しがつき次第、新車と交替させることを決定した。
 一応このような将来対策ができたので、亀田、五稜郭公園電停間、および、亀田、五稜郭駅前の軌道敷設許可申請を運輸省に提出し、新ボギー車の設計を着手させた。ついで、従来のポール式集電装置を、ビューゲル式に変更する準備をすすめることにした。
 新ボギー車は、かって製作した木造ボギー車と、長さ、車内幅員ともにほぼ同一にするが、カーブ半径の関係から、前後のビュステブルは尖端をせばめることにする等を前提に設計をはじめた。
 この当時は、車輌を新造する場合は、運輸省が年度内に製作する数量をきめ、地方鉄道や、軌道事業経営者の申請にもとづいて、製作台数を割当るという仕組になっていたが、函館には初年度二十輌、次年度十輌の割り当があった。これが決定するとつぎにはその建造費に合う起債額の内示があったから、資金面での苦労はあまりなかった。それに新車が入ると、維持修繕費の支出減少と、運行の円滑化で収入の増加も見込まれるから、この建造費の償却はそう苦労せずに済むとの確信が持てた。
 新ボギー車の設計には、渡辺工務課長と、白旗係長が担当したが、製図には白旗君が当った。車輌製造を請け負った日本車輌株式会社の技術者から、激賞されたことは前に書いたとおりだ。
 このボギー車は、中央部に乗降口を取りつけたのが特徴で、単車二台分の乗客を輸送でき、車掌は一名多くなるけれど、単車と比較すると運転手は一人節減できる計算のもとに設計したのだった。 新ボギー車はニ十三年十一月から順次到着し、組立終了後各路線に稼動した。二十三年の夏からトロリー線の単線化工事にも着手したが、全線完了までは従来通りのポール式で運行するので、単線化に必要な溝付トロリー線の入手には、ずいぶん苦労した。さいわい大阪の住友電線株式会社の好意で張り替えが済み次第古いトロリー線を送付するということで前貸ししてくれた。
 そのころは銅の不足時代で、古銅を再使用することまでが許可を要する時代だったから、丸型の線を溝付トロリー線に改造するという名目で、住友電線では好意的に取り扱ってくれたのだった。こんなことを繰り返して翌年度には全部の張り替えを完了し、ビューゲル型集電子を車体の屋根にのせた電車が市内に登場した。ビューゲル使用でいままでのように、車掌がポールを扱う苦労がなくなり、架線が切れることもなく、停電事故発生も防げ、円滑な運転ができるようになって、乗務員の手数や苦労がずいぶんすくなくなった。
 札幌市電が函館のビューゲル式の好結果を参考にして、ビューゲル式に変更したのは後日のことである。
 さて、車輌の改善は一段落を見たので、今度は亀田、五稜郭公園電停間の連絡線の建設を進めることにしたが、その資材の調達が大変だった。おまけにこの連絡線の中間部を流れる新川に橋を架けなければならぬ。その設計は市の土木部がひきうけてくれたが、工事費の負担はできぬという。そこで新らしく架ける橋梁の中央部の電車線路を通す部分だけを、交通局が負担し、両側の車道と歩道は後日土木部でやることに話がまとまり、工事着手ということになったが、今度は工事施工の請負者から、必要な鉄筋がとても入手できそうもないから契約を解消してくれるか、それとも交通局で探してくれるか、という申し入れがあった。
 そこで、前の年大阪へ伸鉄工業の調査に出張して尋ねたことのある鉄問屋に、市長名で照会したら、目下注文が殺到していて、貴意に副い兼るという回答が来て、鉄筋入手の一縷ののぞみも断ち切れてしまった。
 ふと思いついたことは、トロッコ用の古レールを使用する方法があることだった。さっそく請負者を呼び、十ポンドか十ニポンドの古レールが市内の古物商にあるかも知れないからと、調べさせて見たら十二ポンドのレールならいくらでもあることがわかった。さっそくニ尺か三尺くらいの切れっぱしを十本ほど買って来させ、車輌工場で切口を五種類ほど作り、電気溶接で接続し、これを函館ドックに依頼して接続部の強度を試験してもらった。その結果接続部はいずれも九六%の強度があることがわかった。そこで丸鉄筋に代えて十二ポンドレールを使用することに変更し、車輌工場で接続熔接を命じた。車輌工場には大正のはじめころから、電車車輌の磨耗部の電気熔接を担当して、すっかり熟練した工員がいたから、まかせられたのであった。このときできた橋が新世橋である。
 連絡線の建設を計画したころはレールの入手が困難で、申請しても、使用する数量が割りあてられるには数年かかる。それを待っていては何年たったら工事が着手できるか、全く見当がつかないので、国鉄の古レールを購入したいと思い、函館保線区に交渉して見たら、さいわいのことに本線から取り外した再使用可能のものがあることがわかったので、その中から磨滅が比軟約少なくて、私鉄でなら十分使用できるものを払下てもらうよう手続をして、必要数量を確保することができた。
 これで準備一切がととのったので、二十五年六月から工事に着手し、翌年の夏全線が開通営業を開始した。
 この路線を計画したとき、私は中間地点に配車場がなければ効果が半減すると思い、その敷地を物色して地主と交渉し、いよいよ契約調印のどたん場で、横槍が入り民間会社に買占められてしまった。この土地は交通局の将来のためにはどうしても必要なので、新所有者に交渉し、買値の二倍以上の値段でようやく入手することができた。この土地は局の梁川町営業所のあるところだが、私は電車開通後はこの沿線はにぎやかな街通りとなると予想したが、目先のきく土地会社が着目したのも当然で、わずか二年足らずの間に二倍以上の値段になっていたのにびっくりさせられてしまった。
 この年の秋には残りのボギー車十輌も到着したから、旧木造車を全廃したが、収容能力が大きいので輸送力は大幅に増強されることになった。
 つぎの計画は五稜郭駅と亀田間の延長工事であるが、難問題が一つあった。それは、いまの鉄道工場前停留所附付にあるガス会社、貯炭場、専売公社煙草工場等の鉄道引込線を、電車軌道が横断しなければならないことだった。国か道でここに跨線橋を架けてくれると、電車の方の工事は簡単にできるので、道庁へ行くたびに土木部長に陳情したが、どうしても架けるといってくれない。鉄道局に平面交叉を許可してくれと願っても、いくら引込線といっても鉄道に変りないのだから駄目だとはねつけられ、とりつくすベもない始末だった。引込線の手前まで延長しようかとも考えたが、これでは中途はんぱで意味がなくなり、仏つくって魂入れずの言葉どおりになってしまうので、工事着手を躊躇していたが、上京したときひまを見て運輸省に私設鉄道課長を訪ね、その件を話して相談したところ、その課長は北大工学部の出身で、函館土木現業所に勤務したこともあり、ここに来る前は、室蘭土木現業所長をしていたとて、現場をよく知っており、最近本州の某会社からも同じような問題を持ちかけられ、平面交叉を鉄道側に承諾させたことがある。ひとつ貴意に副うよう検討して見よう、と非常に好意を示してくれた。
 その後しばらてたって「貴局の希望している平面交叉を許可することになり、本省から函館保線事務所へ連絡した」という通知があった。さっそく担当者を保線事務所ヘやって交渉させたが、仲々話は進まず、接衝を重ねた結果交叉点にロータリーを造り、車道を少々迂回させる、そのために道路の両側を拡張しなければならぬ、西側は鉄道用地だから無償で使用させるが、東側は民有地だから交通局で買収、という条件て話がまとまり、平面交叉の難問題も解決し、工事着工の準備に入ったが、本工事に着手したのは、私が交通局長を退職した翌年、昭和二十九年の十一月で、三十年十一月に全線が開通した。

Copyright(C)函館市


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