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200型 |
201〜245 |
元東京市電 新1型(ヨヘロ型)
1934年(昭和9年)3月21日の函館大火で、多くの車両を失った為、昭和9年から11年にかけて、東京市電より5回に分けて45両の中古の「新1型」を購入しました。この時、車両には201から番号が付けられました。函館水電株式会社の山本源太氏という重役が買付担当だった関係で、函館では「ヨヘロ車」とは言わず「ゲンタ車」と呼ばれていたそうです。(2002.3.2削除)
山本源太氏は大正13年6月22日に第36回定時株主総会において取締役に選任され、昭和5年3月18日の第28回臨時株主総会で退任されています。旧200型の買付は山本源太氏が担当されましたが、200型については違う重役が買付担当だったと考えられます。昭和9年当時の役員は、専務取締役が穴水熊雄氏、取締役は石津龍輔氏、渡邉又四郎氏、岡田伊太郎氏の三名でした。但し、ヨヘシとヨヘロで屋根の形等、相違点があっても、同じ元東京市電の車輌であったことから、旧200型、200型のどちらも「ゲンタ車」と呼ばれていたのかもしれません(2002.3.2追記/2003.8.17一部修正)。
東京市電時代の「新1型」は「ヨへロ」とも呼ばれていました。「ヨ」は単車を表し、「ヘ」は、東京市電で行われた運転台の改造済み(全面にガラス付き羽目板の取り付け)車両を表します(Vestibule:ベスチビュール改造)。「ロ」は大正6年式更新車の意味です。
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238号−函館市交通局 『走りました80年』より
交通局の許可を得て掲載
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乗降口の扉は400型を参考にして、1943年(昭和18年)に自社工場で取り付けられたものです。それ迄は、運転席の横に扉は無く、横からの風雨がそのまま運転席に入ってしまう状態でした。雪が降る冬の季節は、運転手も車掌も大変な思いをされた事と思います。
それから、これは旧200型、200型に共通、つまりは、東京市電のヨヘシ型、ヨヘロ型に共通のことですが、地上から客室の窓までの高さと、地上から運転席の窓までの高さが違うのが特徴です。客室窓のほうが高い位置、運転窓のほうが低い位置にあるのです。200型の乗降口扉は、運転席にあわせて取り付けられましたので、乗降口扉の窓の位置は、運転窓と同じ高さにありました。上の238号や下の211号の写真をよくご覧いただくと、運転席と客室とで段差があることがおわかりいただけると思います。
これは、梅鉢車(1〜25、41〜46、101〜107号)や自社再生車・更新車(108〜140号)には無い独特の特徴です。
10型車の中でも、成田車、九州車、東京車には、同様に段差がありました。
1934年(昭和9年)の導入後、帝国電力株式会社、大日本電力株式会社、道南電気軌道株式会社の時代を経て、函館市へ移管譲渡後も、しばらくは主力車両として働きましたが、順次廃車となりました。
1950年(昭和25年)6月30日に213,214,215,216,224の5台が廃止されると同時に、残りの211,212,210,220,221,216,217,218号に対して車体番号の整理・改番が行われ211〜218号に改められました。
その後、同年12月1日に10型梅鉢車の13号14号と共に、216号〜218号が廃車になり、1954年(昭和29年)12月22日には215号が廃車になりました。
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川上幸義氏撮影の211号−『鉄道ピクトリアルNO.32』より
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最後迄残っていた211〜214号も、1957年(昭和32年)7月17日で廃車になり、客車としての200型は途絶えました。ですが、200型から除雪車へ改造された車輌がまだ残っています。
1937年(昭和12年)〜1939年(昭和14年)にかけて、除雪車が4両追加されました。これには、中古のヨヘロ車が使用されました。
雪3号〜雪6号の旧番号は次のとおりでした。
雪3(旧244号)、雪4(旧245号)、雪5(旧242号)、雪6(旧243号)
雪6号は、雪1号(旧30号 旧29号、元博軌電車)と共に、1997年に廃車になりました。雪1号と6号の台車や電動機は、アメリカのシーショア路面電車博物館に寄贈され、アメリカの単車の保守部品として流用されました。
雪5号は平成15年(2003年)3月6日に解体されました。
雪3号と雪4号の2台は現役で活躍しています。
(2001年10月27日/12月4日一部追記)
(2002年1月6日写真追加掲載)
(2003年8月17日文書改定)
以前は、大正15年の新川車庫火災後に導入された旧200型と一緒にご説明していましたが、年代的には分かれており、別々に御説明するのが適切と考えページを分けてご紹介することにいたしました(2003年8月17日)
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