|
|
旧200型 |
201〜220 |
元東京市電251型(ヨヘシ型)
函館停留場前から亀田へ(大正10年代)
函館市交通局 『走りました80年』より−交通局の許可を得て掲載
右側手前が205号(元東京市電)、左側奥が30号(元博軌電車)
大正15年(1926年)の新川車庫火災後、車輌を補充するために函館水電の山本源太常務取締役が東京市電より購入したヨヘシ型車両20両。
急場を凌ぐため、車番を201〜220号にした以外は、東京市電時代のそのままの姿で走らせました。函館では「源太車(ゲンタ車)」と呼ばれていました。屋根が2段式である点に特徴があります。
東京市電が誕生するより前の、東京市街鉄道時代に製作された車輌で明治36〜38年生まれであったことから、車体が老朽化しており数年で100型へ車体更新が行われました。
鉄道省(現在の国土交通省)へは車体更新後の100型で申請をしています。車体更新後の車番は113〜130,132,133号に改番されています。
昭和21年から交通局長を担当された葛西民也氏が残してくださった『続函館市史資料集(第1号)』には、大正15年1月20日の新川車庫火災をふり返り次のように書かれています。
さて、火災後会社では直ちに山本源太常務取締役を上京させて、応急策として東京市電から増車の中古ニ十輌を買い人れ、函館に運んで手入れをして、全線に運行させたので、市民にはそう大きな不便をかけずに済んだ。
(中略)
車台、機械類はそれでも手入れ次第では今後なお使用できるが、車体そのものは木造だったし、永い間放置されたままだったから、ガタガタにゆるみ、運行中に急停車したときなどは、いまにもつぶれてしまうのでないだろうか、と心配されるほどのしろものだった。
しかし、急場しのぎにはこれらも戦力のひとつだったから、かたっぱしから諦め直しをして営業線に出動させた。運行中にギシギシ車体がきしむのはどうしても直らなかったから、乗客にはすこぶる評判がわるかった。おまけに東京市電初期の製作だったから、室内の幅もせまくて窮屈だったのて、満員の際の乗降などは能率がわるく、乗務員たちはこの車に乗るのをきらって、出庫の際など乗務員にその車の番号を指示すると、「なあんだ、今日も朝から源太車か、今日はゲンがわるいぞ」と敬遠され勝だった。源太車とは、この電車を東京市電から買入れ交渉をしたのが、山本源太取締役だったから、乗務員がいつの間にかこういう名称をつけたのだった。
そういうわけで、市民の評判もわるく、乗務員からも敬遠されるので、この際いそいで車体全体を新しくしたい、と考えて、いろいろ研究したところ、製作会社に造らせるのと、これを新川工場で自作するのでは、比較にならぬほど自製が安価で、半額以下で造れるという見通しがついた。
重役に具申して許可をもらい自製にふみきったが、使用する材質は全部道産品を用いることとして、ナラ、タモ、サクラ等の上質をえらび補強の金具類は焼けた旧車体から使えるものを取り外して再使用して、完成したが一輌当り三千五百円という安い単価で済ませることができた。これに力を得て単車のほかにボギー車二輌も補充することにしたが、一輌は自家製作とし一輌は大阪市の梅鉢製作所に作らせた。この結果自家製の方は 外註の半額以下でできあがり、重役から非常によろこばれた。ちなみに北海道で電車車体を製作したのは函飴水電の新川工場が最初である。
(雪の凾館) 末廣町の西部 (津軽要塞司令部許可)
白土貞夫様所蔵の絵葉書−許可を得て掲載
上記の写真(絵葉書)には、ヨヘシ型の車体で209号が写っています。
車体更新前(大正末から昭和初期)に撮影されたものと考えられます。
凾館 十字街附近 (津軽要塞司令部御許可)
白土貞夫様所蔵の絵葉書−許可を得て掲載
上記の写真(絵葉書)には、ヨヘシ型の車体で206号が写っています。
手前が206号で、少し離れて梅鉢工場製の7号車も写っています。
7号車は、函館大火後も無事でしたが、大火直後14号車へ改番されていますので、この写真は函館大火前のものと考えられます。
また、206号の屋根の形から、上記の写真と同様に、車体更新前(大正末から昭和初期)に撮影されたものと考えられます。
以前は、昭和9年の函館大火後に導入された200型と一緒にご説明していましたが、年代的には分かれており、別々に御説明するのが適切と考え「旧200型」としてご紹介することにいたしました(2003年8月17日)
(2001年10月27日/12月4日一部追記)
(2002年1月6日写真追加掲載)
(2003年8月17日文書改定) |
|