昔の車両のご紹介
100型   101〜140

101〜107号が梅鉢工場から購入した新車で、108〜140号は107号までの梅鉢車の設計思想を取り入れた自社工場製の車輌でした。
自社工場製の車輌の中には、10型車の車体更新車(自社再生車)と、東京市電から購入したヨヘシ型を車体更新した車輌があった模様です。


【101〜107号】...梅鉢製新車
1928年(昭和3年)に購入の説がありますが、「走りました80年」(函館市交通局)によれば、新川車庫火災後の、1926年(大正15年)5月7日に7両の到着という記録になっています。火災という特殊事情から、製作側で納入を優先してくれたのかもしれません。堺市の梅鉢工場(梅鉢鉄工所)より、新車で購入しました。

川上幸義氏の『函館市電』−鉄道ピクトリアル誌1954年3月号No.32 及び
もはゆに誌1948年12月号No.7(東京鉄道同好会)−の記事の中で、「車輌概況」の表において101(旧104)、102(旧105)号の製造年を「大15」と記されております。「走りました80年」の記録とも一致しますので、101〜107号は大正15年製であったと考えて間違いないようです。

【108号】...自社再生車(元10型車)
1932年(昭和7年)10月28日付で、帝国電力より運輸省に対して、廃車を108号として復活する旨の届(増加届)が出されています。新川車庫の火災で焼失した10型車の台車を利用して、車体を自社再生したようですが、10型時代の番号はわかりません。1932年の届出ですが、実際は109号〜112号とほぼ同時期に就役したのではないかと思われます。107号の次に、108号を空番にして109〜112号を就役させるのは、車番の採番方法として不自然だからです。

しかし、別の考え方もあります。
川上幸義氏の調査では、昭和4年1月に半焼車の再生を行った旨の記載で25号車の記述があります(もはゆに誌No.7)。25号車を再生し、108号としたのかもしれません。25号車といえば、10型梅鉢車です。108号を空番号にしていた理由も、101〜107号の同じ梅鉢車の続きと考えたのではないかという推測です。


【109〜112号】...自社再生車(元41〜46号の中の4両)
【109〜112号】...10型からの改番車輌(旧41,42,43,46号)
1926年(大正15年)1月20日、新川車庫の火災後、10型梅鉢車41〜46号の内の4両を改番・整理したものですが、旧番号の内訳は不明41,42,43,46です。41〜46号は101〜107号と同様、梅鉢工場で製作されたものです。その関係で、車体構造が似ている同じであることから、101〜107号と同じ車種として扱うべく100型へ整理・改番されたのだと考えられます。

大正15年の101〜107号の客車増設届には、41〜46号と同じ設計である旨が書かれています。つまり41〜46号は101〜107号と同じ設計でした。(2003.8.9追記・一部訂正)

【113〜130,132,133号】...旧200型の車体更新車
新川車庫の火災後に購入した、東京市電251型20両について、自社工場で100型へ車体更新を行いこの車体番号がつけられました。これらの20両は、函館に到着後は201〜220号の車番でした。明治生まれの老朽化した車体であったため、昭和初期に順次車体更新を行い100型に改番されました。131号を飛ばした趣旨は定かではありませんが、10型車から100型へ改番する車輌があり1台割り込みが入って、番号が飛んだのかもしれません。(2003.8.17文書改定)

【131号】...自社再生車(元10型車)
108号と同時期に、1932年(昭和7年)10月28日付で、廃車を131号として復活させる届(増加届)が出されています。新川車庫の火災で焼失した10型車の台車を利用して、車体を自社再生したようですが、10型時代の番号はわかりません。
届出は1932年で遅れたようですが、上記のヨヘシ型20両を車体更新するとき、この元10型車両も一緒に車体更新したと考えられます。

【134〜140号】...自社再生車(元10型車)
1932年(昭和7年)4月6日の増車の届出ですが、10型時代の番号はわかりません。新川車庫の火災で残った台車部分を流用し、車体を自社工場で再生したものです。

       140号−函館市交通局 『走りました80年』より
交通局の許可を得て掲載


自社再生車についてですが、車体の設計に関しては、101〜107号の梅鉢車の設計思想が引き継がれていました
10型とあまり変わらない外見でしたが、胴回りの絞りが無く、車高も若干低めであった為、「亀の子電車」と呼ばれていたそうです。また、自社工場での再生能力については、車体製造の専門メーカーからも高い評価を得たそうです。


●函館大火(昭和9年)後の100型

1934年(昭和9年)3月21日の函館大火により、多くの車両を失いました。単車62両、ボギー車6両、貨車2両の計70両の内52両(貨車電車を含めると54両)が焼失しました。ボギー車と貨車は全滅し、単車16両だけが焼失を免れました。
10型で残った車両は3,12,13,7,15,9,30,39の8両で車体番号の整理・改番により、11,12,13,14,15,16,30,39号に改められました。11〜16号が梅鉢車、30号が九州車、39号が成田車です。

100型で残った車両は、104,105,118,120,123,128,132,140の8両だけでした。
104と105号は大正15年到着の梅鉢車、118,120,123,128,132号の5両は、新川車庫火災後に購入した元東京251型です。これらの5両は、ヨヘシ型の車体から梅鉢車タイプの車体に自社工場で更新されていた模様です。140号は自社再生車ですので、台車部分は元々は10型車でした。

10型車と同様に、車体番号の整理・改番が行われ、101〜108号に改められました。


      川上幸義氏撮影の105号(花電車改造前の姿)
『鉄道ピクトリアルNO.32』より


101号と107号は、11号、12号と共に、1954年(昭和29年)12月22日に廃車となりました。108号は1957年(昭和32年)7月17日に、102号と103号も1959年(昭和34年)7月14日に廃車となりました。104〜106号は、花電車用の装飾車として、使用されることになりました。ただし車体部分の多くが外されて台車部分と電気系統、電動機系統のみが残されただけです。
104〜106号も、1971年(昭和46年)8月2日には300型にその役目を引き渡し、廃車となりました。

かつては車体製造の専門メーカーからも絶賛された、大半が自社工場製であった100型でしたが、時代の流れに逆らうことはできず1台も残りませんでした。 前のページへ戻る
(2001年10月27日 / 11月11日一部改定)
  

140号車の写真の掲載につきましては、函館市交通局より発行の
『走りました80年』より掲載させていただきました。 許可をくださった、
函館市交通局長の岩船様、 ご担当の加藤様、 そして函館市交通局の皆様と、便宜を図ってくださった田澤様に御礼申し上げます。
ありがとうございます。(2001年12月22日)
 

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